敗戦直後の羽田空港                          住民3000人に 二日以内の強制退去

「48時間以内に退去せよ」(中島早苗著 旬報社)紹介

年間9000万人の利用客がある羽田空港は、その利便性でも大きく評価され、世界のトップクラスの空港の評価を得ています。この日本の発展を支える空港の歩みの中で、太平洋戦争の敗戦直後、空港敷地内の約3000人の住民がたった2日間での強制退去を求められました。知る人の少ないこの史実を、生存する被害住民に聴きながらまとめた「48時間以内に退去せよ」(中島早苗著、旬報社)が記録しています。江戸時代から豊かな漁村であり、行楽地としても栄えた羽田で、なぜ戦禍を生き延びた多数の住民が生活を奪われなければならなかったのか。空港という発展の象徴、その「翼の影」を探り歩くこのレポートは、見えにくい市民の戦争被害を掘り起こし、「忘れず伝えることで、同じ間違いを繰り返さないという平和への誓いを持ち続けたい」とその狙いを語ります。

(地図の無断転載をお断りします)

強制退去は敗戦直後の1945年9月20日、進駐した連合国軍の最高司令官総司令部(GHQ)によって発令されます。対象は羽田江戸見町、羽田穴守町、羽田鈴木町の旧羽田3町(現羽田空港の南西端の地域=地図参照)に居住する1320世帯2894人で、期限は翌21日から48時間以内に立ち退くよう命じるものでした。GHQは同月半ば羽田飛行場の引き渡しを日本政府に要求しており、住民退去はGHQの飛行場拡張が理由にされました。

GHQや日本政府による移転先の確保、代替地の提供はなく、自動小銃を持つ米兵に追い立てられるように、住民は不安と大混乱に巻き込まれながら、リヤカーなどでささやかな家財道具を3町外に運び出し、ある家族は親せきや知人を頼り、あるいはにわか仕立てのバラックに移りました。しかし余りに短時間の退去命令のため転居先が見つからず、川の土手で、あるいは神社の縁の下で生活する住民もいたといいます。

この苦労を体験した元住民を筆者が尋ね歩きます。多くが80代から90代の高齢者ですが魚介類が豊富な海や多摩川でなどで泳ぎ遊んだ記憶と、戦争になってからの学童疎開のひもじさ、そして突然の強制退去の苦労が鮮明な記憶として語られています。
せっかく空襲を逃れ生き延び、暮らしを立て直そうとしていた住民たちにとって、住居の放棄は、仕事、暮らしの糧を奪われるに等しく、生活の破壊でした。そしてその補償さえ、当時はほとんどありませんでした。

彼らへの取材から戦前の羽田が再現されます。町内には全国から参詣者を集めた穴守稲荷神社があり、海水浴や釣り潮干狩り客も多く、旅館や料亭なども立ち並び、女優や歌舞伎役者がやって来た東京の一大観光地だったことが語られます。
江戸時代から、羽田は漁業が盛んで、幕府ご用達の魚介類を納める指定地の一つでした。また明治時代にはノリの養殖も始まり,羽田産は高級海苔として評価を得ていました。

この豊かな地域がGHQにより接収され、有刺鉄線に囲まれた約6万坪の土地には、進駐軍のプレハブ兵舎が立ち並びます。羽田三町はこの空港本体が完全返還される1958年前後まで日本人の出入りが制限され続けます。

レポートは、羽田から5キロほどの埋め立て地「平和島」に作られた捕虜収容所「大森収容所」も記載します。
連合国の捕虜収容所は、国内に終戦までに延べ130か所存在したと伝えられています。終戦時の外国人捕虜は32,418人で死亡者は3480人(※)にのぼります。日本国内での捕虜死亡率は1割ほどですが、国外や輸送船内で死亡した捕虜を加えると、死亡率は「ずっと高まり」、「国内外の捕虜約14万人のうち、3万数千人が死亡し、死亡率は27パーセントに及んだ」といわれています。
(※=笹本妙子著/草の根出版会「連合軍捕虜の墓碑銘」など参照)

このうち大森収容所には、米、英、オランダ、ジャワ人など終戦時には数百人が送り込まれており、過酷な拘束の中で43人の死亡が記録されています。
この大森収容所は敗戦後「大森プリズン」と名称が変わり、東条英機元首相や土肥原賢二陸軍大将、岸信介商工相などのA級戦犯とB、C級戦犯が、巣鴨プリズンの出来る45年12月まで収容されているのです。
A級戦犯の内7人に死刑が執行されました。戦犯たちが退所後の大森プリズンは、空襲で焼け出された人々の仮住居とされ、その後競艇場の観客スタンド、そしてレジャーランドへと変わっていきます。

羽田が日本初の国営の民間航空専用「東京飛行場」として開場したのは1931年(昭和6年)です。面積は53ヘクタール、滑走路は1本でした。その後沖合の埋め立てを重ね、現在は1522ヘクタールと約30倍に拡大し、渋谷区に匹敵する広さに滑走路は4本になりました。規模、利用客とも世界のトップクラスの羽田からはいま、ピーク時に1分間に1.5本の発着があります。

日本の高度成長とともに大きく拡大した飛行場に、消えた町、人々の長い暮らしの歴史と営みがあり、それが戦争、敗戦といった国家破綻により瞬時に消し去られた惨禍をこの本は伝えてくれます。そしてその戦禍に立ち会った個々の人々の視線、辛苦の経験を基にしたレポートは、ウクライナや中東で戦火が絶えない中、「平和な暮らしを守るために、記録と伝承が不可欠」なことを教えてもくれます

なお本書には江戸時代に描かれた羽田の浮世絵はじめ、多くの写真、画像が多数掲載されています。そして羽田に集落が確認された中世の平治年間(1159~1160年)から、この土地の成り立ちを追い、関係資料を紹介しており、同地域の変遷を追った手軽な羽田歴史ガイドブックにもなっています。

ブログ 再開

長らくブログ執筆から遠ざかっていましたが、また過去の執筆メモも含めこのブログに掲載していきます。(2024年9月)

瀬戸内寂聴さんの思い出(2021年11月)

以下は寂聴さんがお亡くなりになった後、ささやかな思い出を綴ったものです。

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瀬戸内寂聴さんが亡くなられた。

私は小説をほとんど読まない人間だが、彼女の本は晴美の名前で執筆していたころから割に読んでいた。

私は新聞記者時代、瀬戸内さんには3度ほどお目にかかったことがある。

最初は徳島ラジオ商事件の再審判決の論評のお願いだった。

徳島ラジオ商事件とは、四国・徳島県徳島市で1953年に発生した殺人の冤罪事件だ。電気店の店主が殺害され、内縁の妻の富士茂子さん(当時43歳)が、電気店の住み込み店員2人の証言によって殺人容疑で逮捕された。

徳島地方裁判所は1956年に懲役13年の判決を言い渡した。富士さんは控訴したが棄却、上告も裁判費用が続かず、刑が確定した。

その後住み込み店員が、検事に強要され偽証した、と自首したが不起訴となった。茂子さんは獄中から再審請求を重ねた。そして1966年に仮出所したが、第5次の再審請求をしていた1979年に69歳で死去した。

再審請求は姉妹弟が継承し、1980年にやっと徳島地裁での再審開始決定が実現した。

私はこの再審公判の取材を担当していた。瀬戸内さんは再申請求が始まった当時から、その支援活動に加わっていた。

1985年7月の再審の判決日程が決まった数か月前だったと思う。京都の寂庵に初めて伺った。用件は、判決の日に現地で裁判の評価と感想を書いていただくお願いだった。

庵に上げていただき、こちらからお願いする前に、寂聴さんは言った。

「私、本当は新聞記者が嫌いなの」。

瀬戸内さんは、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞 を受賞し、作家としての足場を築いていた。しかしその受賞後第1作『花芯』が、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、雑誌、新聞などから「子宮作 家」とレッテルを貼られる。 その後数年間は文芸雑誌などからの執筆依頼がなくなったという。おそらくこれらの理不尽な批判と、マスコミの新聞記者の姿が重なり、記者嫌いになっておられたのだと思う。

 「嫌い」の言葉にひるんだが、彼女が直ぐ言葉を続けた。

 「でも一人だけ、信頼できる人がいる。その人に免じて、今回はお手伝いするわ」

「その人」とは斎藤茂男さん(1999年逝去)だった。斎藤さんは共同通信の記者だった。

その斎藤さんと私は、同じ取材現場を回ったこともあった。そして彼の取材力に圧倒された経験があった。

1980年前後、全国で校内暴力事件が渦巻いた時代、特にひどい状況の兵庫県尼崎市の中学校が取材現場だった。斎藤さんの取材期間はひと月足らずだったと思う。その後発表された彼のルポルタージュは、暴力の現状だけでなく、その当事者の生徒、親、教師の個々の悩める姿、心情、時代背景までくっきりと描ききっていた。私は半年近くも現場に入りながら、まともな特集記事一つ書けていなかった、

斎藤さんは歴史に残るスクープで知られていた。大分県で1952年に発生した駐在所爆破事件の犯人の潜伏先を突き止め、取材。事件が公安警察の捏造だったことを明らかにしたのだ。

菅生(すごう)事件と呼ばれるこの事件は、日本共産党を弾圧するための公安警察の自作自演だった。しかし当初は同党員5人が、ダイナマイトで駐在所を爆破したとの容疑で逮捕起訴され、1955年一審の大分地裁で5人は爆発物取締罰則違反で有罪判決を受けた。公判中に弁護側は、被告らがある人物に呼び出されていることを確認、その人物が警備課の巡査部長である疑いを強くした。当時、共同通信の社会部記者だった斎藤さんらは、彼の失踪先を追い、一審判決後の1957年に東京・新宿のアパートで彼を発見、県警本部からの指示による犯行を認めさせたのだった。

斎藤さんらのスクープをきっかけに、巡査長が、国家地方警察大分県本部警備部等の命令で潜入捜査をしていたことや、ダイナマイトの運搬をしたことなどが明らかになった。

爆破事件は2審福岡高裁で全員の無罪が確定した。

話を徳島ラジオ商事の再審に戻す。

富士茂子さんの再審請求は、彼女の弟姉妹や親類が核になり、支援の輪を広げていた。同じ徳島出身の瀬戸内さんも早くからその支援に加わっていた。地方だけの運動でなく、東京でも支援を広げたいと、

まず東京の司法の記者クラブに甥の渡辺倍夫さんらが訴えに出かけた。

しかし地方の事件ゆえに各社の反応は悪かった。その中で一人だけ、現地の徳島に出張取材に出かけた記者がいた。当時、共同通信の司法担当していた斎藤茂男記者だった。

 

斎藤さんはその旺盛な取材力で、強引な取り調べが有罪の決め手となった店員らの偽証を生んだこと、その後の裁判の誤審の事実などを解き明かし、富士茂子さんの冤罪を全国に配信した。その記事をきっかけに各社の報道も増え、再審請求を大きく支援することになった。

寂聴さんは斎藤茂男記者の取材力、その熱気を帯びた記事に感心した。彼の行動力、取材に対する信念が、彼女の新聞記者不信を少し拭い去ってくれていたのだ。

斎藤さんは、日本の貧困や教育崩壊につき、多くのルポルタージュを残している。菅生事件の取材では原寿雄さん(2017年逝去)がキャップだったという。原さんも1965年から、日本の政治状況を克明に綴ったデスク日記や、晩年まで続けたジャーナリズム論評でよく知られており、共同通信の事業部門会社の社長なども務められた。

共同通信は戦後多くの有能な記者を輩出しているが、斎藤、原両者のリベラルでぶれない取材姿勢と活躍が、その母体になっていると私はいつも思っていた。

ただし原さんに比べ、斎藤さんは近年忘れられたような存在になっている。社会の底辺、矛盾に焦点を合わせ、徹底的な取材をし、事実に語らせようとするその作品は、もっと評価されるえきだと、私は残念に思っている。

 

私は斎藤さんに一度お目に掛かったことがある。再審無罪判決の5年余り後だったと思うが、私がデスク担当した連載記事が新聞労連のジャーナリズム大賞を受賞した。その時の審査員の一人が斎藤さんだった。祝いのパーティーで、瀬戸内さんの斎藤さんへの高い評価を伝えると、「寂聴さんの熱気には、僕らも負けますね。何度も励まされましたよ」と少年のような笑顔を見せた。

 そしてこの一連の瀬戸内さんの思い出でも、鮮明なシーンが一つある。

再審判決の日、瀬戸内さんは徳島地方裁判所内に特設された私たちの取材編集デスクに座って下さった。判決は午前10時に言い渡される。瀬戸内さんには無罪判決の予定原稿を書いていただいていた。というのは当時の新聞夕刊の早番の締め切りは10時20分で、判決後に書いていては間に合わず、早番はいつも予定原稿で処理していた。

この日、無罪判決の判決文が確認できたのは10時10分過ぎ。当時はパソコンなどなく原稿送稿時間も必要で、締め切りにはもう5分余りしかなかった。

 

無罪判決の第一報が入ると突然、瀬戸内さんが言った。「全文書き直します」。言うなり記事を書き出していた。

夕刊のトップニュースが、締め切りに間に合わなくなる。言われたこちらが焦った。しかしもう見守るしかない。

凄い執筆の早さだった。法衣姿の寂聴さんが、大きな磁場を発しているように見えた。

書き直された50行余りの判決論評には、茂子さんの人生を奪った捜査と、長年再審の門戸を閉ざした司法、権力への怒り、そして茂子さんへの鎮魂が、裁判所内の支援者たちの無罪判決への喜びの熱気をも取り込んで、鮮やかにまとめられていた。

締め切り時間はしっかりとクリアしていた。プロの作家の凄さを、私は目の前で学ぶことができた。投稿日:瀬戸内寂聴さんの思い出にコメント検索検索

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