長らくブログ執筆から遠ざかっていましたが、また過去の執筆メモも含めこのブログに掲載していきます。(2024年9月)
瀬戸内寂聴さんの思い出(2021年11月)
以下は寂聴さんがお亡くなりになった後、ささやかな思い出を綴ったものです。
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瀬戸内寂聴さんが亡くなられた。
私は小説をほとんど読まない人間だが、彼女の本は晴美の名前で執筆していたころから割に読んでいた。
私は新聞記者時代、瀬戸内さんには3度ほどお目にかかったことがある。
最初は徳島ラジオ商事件の再審判決の論評のお願いだった。
徳島ラジオ商事件とは、四国・徳島県徳島市で1953年に発生した殺人の冤罪事件だ。電気店の店主が殺害され、内縁の妻の富士茂子さん(当時43歳)が、電気店の住み込み店員2人の証言によって殺人容疑で逮捕された。
徳島地方裁判所は1956年に懲役13年の判決を言い渡した。富士さんは控訴したが棄却、上告も裁判費用が続かず、刑が確定した。
その後住み込み店員が、検事に強要され偽証した、と自首したが不起訴となった。茂子さんは獄中から再審請求を重ねた。そして1966年に仮出所したが、第5次の再審請求をしていた1979年に69歳で死去した。
再審請求は姉妹弟が継承し、1980年にやっと徳島地裁での再審開始決定が実現した。
私はこの再審公判の取材を担当していた。瀬戸内さんは再申請求が始まった当時から、その支援活動に加わっていた。
1985年7月の再審の判決日程が決まった数か月前だったと思う。京都の寂庵に初めて伺った。用件は、判決の日に現地で裁判の評価と感想を書いていただくお願いだった。
庵に上げていただき、こちらからお願いする前に、寂聴さんは言った。
「私、本当は新聞記者が嫌いなの」。
瀬戸内さんは、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞 を受賞し、作家としての足場を築いていた。しかしその受賞後第1作『花芯』が、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、雑誌、新聞などから「子宮作 家」とレッテルを貼られる。 その後数年間は文芸雑誌などからの執筆依頼がなくなったという。おそらくこれらの理不尽な批判と、マスコミの新聞記者の姿が重なり、記者嫌いになっておられたのだと思う。
「嫌い」の言葉にひるんだが、彼女が直ぐ言葉を続けた。
「でも一人だけ、信頼できる人がいる。その人に免じて、今回はお手伝いするわ」
「その人」とは斎藤茂男さん(1999年逝去)だった。斎藤さんは共同通信の記者だった。
その斎藤さんと私は、同じ取材現場を回ったこともあった。そして彼の取材力に圧倒された経験があった。
1980年前後、全国で校内暴力事件が渦巻いた時代、特にひどい状況の兵庫県尼崎市の中学校が取材現場だった。斎藤さんの取材期間はひと月足らずだったと思う。その後発表された彼のルポルタージュは、暴力の現状だけでなく、その当事者の生徒、親、教師の個々の悩める姿、心情、時代背景までくっきりと描ききっていた。私は半年近くも現場に入りながら、まともな特集記事一つ書けていなかった、
斎藤さんは歴史に残るスクープで知られていた。大分県で1952年に発生した駐在所爆破事件の犯人の潜伏先を突き止め、取材。事件が公安警察の捏造だったことを明らかにしたのだ。
菅生(すごう)事件と呼ばれるこの事件は、日本共産党を弾圧するための公安警察の自作自演だった。しかし当初は同党員5人が、ダイナマイトで駐在所を爆破したとの容疑で逮捕起訴され、1955年一審の大分地裁で5人は爆発物取締罰則違反で有罪判決を受けた。公判中に弁護側は、被告らがある人物に呼び出されていることを確認、その人物が警備課の巡査部長である疑いを強くした。当時、共同通信の社会部記者だった斎藤さんらは、彼の失踪先を追い、一審判決後の1957年に東京・新宿のアパートで彼を発見、県警本部からの指示による犯行を認めさせたのだった。
斎藤さんらのスクープをきっかけに、巡査長が、国家地方警察大分県本部警備部等の命令で潜入捜査をしていたことや、ダイナマイトの運搬をしたことなどが明らかになった。
爆破事件は2審福岡高裁で全員の無罪が確定した。
話を徳島ラジオ商事の再審に戻す。
富士茂子さんの再審請求は、彼女の弟姉妹や親類が核になり、支援の輪を広げていた。同じ徳島出身の瀬戸内さんも早くからその支援に加わっていた。地方だけの運動でなく、東京でも支援を広げたいと、
まず東京の司法の記者クラブに甥の渡辺倍夫さんらが訴えに出かけた。
しかし地方の事件ゆえに各社の反応は悪かった。その中で一人だけ、現地の徳島に出張取材に出かけた記者がいた。当時、共同通信の司法担当していた斎藤茂男記者だった。
斎藤さんはその旺盛な取材力で、強引な取り調べが有罪の決め手となった店員らの偽証を生んだこと、その後の裁判の誤審の事実などを解き明かし、富士茂子さんの冤罪を全国に配信した。その記事をきっかけに各社の報道も増え、再審請求を大きく支援することになった。
寂聴さんは斎藤茂男記者の取材力、その熱気を帯びた記事に感心した。彼の行動力、取材に対する信念が、彼女の新聞記者不信を少し拭い去ってくれていたのだ。
斎藤さんは、日本の貧困や教育崩壊につき、多くのルポルタージュを残している。菅生事件の取材では原寿雄さん(2017年逝去)がキャップだったという。原さんも1965年から、日本の政治状況を克明に綴ったデスク日記や、晩年まで続けたジャーナリズム論評でよく知られており、共同通信の事業部門会社の社長なども務められた。
共同通信は戦後多くの有能な記者を輩出しているが、斎藤、原両者のリベラルでぶれない取材姿勢と活躍が、その母体になっていると私はいつも思っていた。
ただし原さんに比べ、斎藤さんは近年忘れられたような存在になっている。社会の底辺、矛盾に焦点を合わせ、徹底的な取材をし、事実に語らせようとするその作品は、もっと評価されるえきだと、私は残念に思っている。
私は斎藤さんに一度お目に掛かったことがある。再審無罪判決の5年余り後だったと思うが、私がデスク担当した連載記事が新聞労連のジャーナリズム大賞を受賞した。その時の審査員の一人が斎藤さんだった。祝いのパーティーで、瀬戸内さんの斎藤さんへの高い評価を伝えると、「寂聴さんの熱気には、僕らも負けますね。何度も励まされましたよ」と少年のような笑顔を見せた。
そしてこの一連の瀬戸内さんの思い出でも、鮮明なシーンが一つある。
再審判決の日、瀬戸内さんは徳島地方裁判所内に特設された私たちの取材編集デスクに座って下さった。判決は午前10時に言い渡される。瀬戸内さんには無罪判決の予定原稿を書いていただいていた。というのは当時の新聞夕刊の早番の締め切りは10時20分で、判決後に書いていては間に合わず、早番はいつも予定原稿で処理していた。
この日、無罪判決の判決文が確認できたのは10時10分過ぎ。当時はパソコンなどなく原稿送稿時間も必要で、締め切りにはもう5分余りしかなかった。
無罪判決の第一報が入ると突然、瀬戸内さんが言った。「全文書き直します」。言うなり記事を書き出していた。
夕刊のトップニュースが、締め切りに間に合わなくなる。言われたこちらが焦った。しかしもう見守るしかない。
凄い執筆の早さだった。法衣姿の寂聴さんが、大きな磁場を発しているように見えた。
書き直された50行余りの判決論評には、茂子さんの人生を奪った捜査と、長年再審の門戸を閉ざした司法、権力への怒り、そして茂子さんへの鎮魂が、裁判所内の支援者たちの無罪判決への喜びの熱気をも取り込んで、鮮やかにまとめられていた。
締め切り時間はしっかりとクリアしていた。プロの作家の凄さを、私は目の前で学ぶことができた。投稿日:瀬戸内寂聴さんの思い出にコメント検索検索
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