自立した老いとは 老いのたわ言

 加藤校長は多くの手記、原稿に清書した随想、短歌、日記を残しておられます。
まずは当方が気付いたものを順次紹介し、最終的には編集のし直しをさせていただきたいと思います。
  先生は96歳の時に思いつくことをまとめた冊子「老いのたわ言」も残しておられます。その「たわ言」のメモから少し紹介します。

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「老いのたわ言」
■5月になっていよいよ夏日の暑さ。
 うれしいことに庭の山野草がすこぶる元気だ。土にすがって早朝の庭をひと巡りする。朴の葉が緑の天蓋となり、生き残った草のあれこれが元気になり嬉しい。 
 去年箱根仙谷の山草屋でいづみの買ってくれた野草が、全部元気に生き残り、いくつもの花が今年も見られること。生きがいここに在り。
 ウマノスズクサ、ニッコウキスゲ、ヤマラッキョウ、ヤマブキソウ、クジャクキキョウ、シロベナタツナミソウ、ニニンシズカ・・・。書ききれない喜びは私の生きがいだ。
 おしゃべり、音読、下手な歌、お経も電話も怒鳴るのも、みんな声帯の活動である。声帯を活動させねば弱るばかり。声が弱くなり。声に力がなくなるのもしゃべらないからだ。声を出す努力をしよう。人は一日どれほどの声を出すのだろうか。

 反復使用によって発達し成長する人間の能力は、使わなければ驚くべき速さで衰え老化する。老化で衰えた能力の回復は、反復使用あるのみ。
 病気は薬や医師の治療で阻止し、回復することが可能だが、老化防止には医師も薬も役立たないことが多い。強い意志を持った反復活用とその努力が唯一の対策だ。

■老人多忙などと言うと、老人ほど暇で時間を持て余しているものはないだろう、何が忙しいのかと叱られそうである。
 寝たきりで生活一切を介抱してくれる人がいてくれる場合は、テレビでも見て横になっている以外は何もすることがない。いわゆる老人生活で多忙などとは一切縁のない日々であろうが、介護や援助をしてくれる人が誰も居ず、自分の身の回りから家事一切をしていかなければ生活のできない私のような者は、生活時間に追われて毎日忙しさと闘って生きている。

■日本の大都市には驚くほど多くの専門医院がある。大病院の窓口に行くと、これは病院ではなくて医学の研究所かと疑うばかりの専門窓口が並んでいる。ところが、病人が最も多いだろうと思われる高齢者専門の病院も病院窓口も見当たらない。これはいったいどうしたことか。
 老人は金もうけにならないのか。老人の病気なんて研究する面白さもメリットもないのだろうか。そもそも老人の病気は病気でないのだろうか。

■ 老人であってもその言行に責任を持とう。自分の言行に責任を持たなければ、それは飼育された動物の一つに過ぎず。