新聞経営が見落としたもの その2

2.求人広告の可能性を見過ごしさせたもの

求人広告を奪われ米国の新聞破たん相次ぐ

   求人広告の媒体は今でこそネットが主流になっているが、以前は新聞がその主要媒体だった。そしてその多くが3行広告という形で扱われた。

   最近では、3行広告というと風俗店が大いに利用している。しかし新聞が普及してから全盛だったころまでは、求人や不動産の案内広告として新聞社の広告収入、経営を支える大きな存在だった。

 3行広告というのは狭い枠の中に極めて効率的に情報を収めている。安い価格で新聞広告をするため工夫されたシステムなのだろう。しかしそれを拡充し、新たな市場拡大をしようとした新聞の担当者がいたとは聞いたことがない。

 2000年を過ぎたころだっただろうか、この3行広告が大きな話題になった。それは日本でなく、米国だった。
 米国ではこの3行広告にあたるものはクラシファイド広告といい、新聞広告の4割近い売り上げを稼いでいた時代もあった。しかしこれがクレイグリスト社などネット広告に奪われ、米国の新聞社の息の根を止めると騒がれた。そして収入の8割近くを広告に頼る米国の新聞社は、クラシファイド広告の減少を引き金に経営破たんする社が続出した。それは著名な中央紙にまで波及し、今やワシントンポストでさえアマゾンの創業者でCEOのジェフ・ベゾス氏に買収された。

リクルートは競争相手にあらず?

 総売り上げの3割から半分近くを広告収入に頼っていた国内の新聞社も、求人広告の重要性、将来性に気づいてはいなかった。
 
   国内でこの求人広告に注目した人物がいる。リクルートを創業した江副浩正氏だ。
 1955年に東大に入学した江副氏は、2年生の時東大新聞に参加する。同新聞の経営基盤は広告収入だったが、当時は近くの喫茶店などの付き合い広告などを集めるしかなく、いったん経営破たんした後だったと記されている。その営業を担当した江副氏の注目したのが企業の求人案内広告だった。

 大学生の就職案内を柱に大学広告社として始まったリクルート社は、まず一般新聞社への求人広告出稿を大きく削り取った。以後住宅、アルバイト、転職、人材派遣、旅行にブライダルなど広告事業を大きく拡大し、半世紀余りで年間売上2兆円に近い巨大企業グループに成長した。

 そのリクルートの足跡を見ると、同社が築いた事業で新聞社が扱えないものは何もなかったことがわかる。米国のクラシファイド広告のネット化も新聞社ならすぐ対応できたはずだ。結果はともに見過ごした。

  後からやって来た小さな組織が、目の前で自分たち新聞社の持つ可能性をどんどん先に利用して拡大、成長していく。新聞で働く人間は、そこに競争心も焦りも感じなかった。

 ではなぜその新市場が発掘され、拡大していく潮流に新聞人は反応しなかったのか。求人広告をもとに当方なりの見方を紹介したい。

新聞広告局=百貨店 

 新聞社で広告を扱うのは広告局で、全盛期はどの社も販売に匹敵する組織と陣容を持っていた。若手も多く、難関だった新聞社の入社試験をくぐってきた優秀な集団だったといっていい。そのスタッフがなぜリクルートなどの求職、人材派遣を扱おうとしなかったのか。

 このシリーズのその1、物流への無頓着さと同じ繰り返しになるが、広告局の彼らもまたハングリーではなかったのだ。そしてその上司も変革の采配を振るおうとしなかったのだ。

 新聞社の広告局に出入りし、この態様、空気はどこかに似ている、と感じたことがある。百貨店だ。知人がある大手百貨店に勤務しており、その経営状況、業界動向をよく聞かされた。彼のオフィス、店舗を訪ねたことが何度もある。

 百貨店も1960年、70年代は就職を目指す学生の憧れの一つだった。三越、伊勢丹、パルコなど、時代の先端の商品を揃え、美術展など文化事業も催し、一つの文化の発信拠点でありステータスだった。

 その全盛期時代から始まったのが、アパレルメーカーなど外部に任せた売り場作りだった。
 メーカーが社員を派遣し、売り場のレイアウトから品揃えまで受け持つ。それにより、百貨店は売り場要員を減らすことができ、メーカーの専門スタッフの的確な商品提供で売り上げも伸びる。売り上げのマージンだけでなくスペースの提供料も加わり収益も上がる。いわば“場貸業”の広まりとともに、メーカー、ブランド依存の殿様商法が始まったのだ。

 このことにより百貨店は、自らが顧客と市場の動向を把握して学ぶ、大切な現場を失った。顧客が何を求めているのか、どう変わりつつあるのか。大切な市場を社員が把握できない。台頭してきた専門店、カテゴリーキラーやセレクトショップなどの脅威にも気づかなくなった。そしてネット販売への対応、あるいはそれらとの差別化などへの決定的な遅れを招いた。

 新聞に戻ると、百貨店と同様の状況がこの業界にも生まれていた。

 新聞社は全国紙に特に顕著だが、電通、博報堂など大手を主体とした広告代理店がその新聞社専門の担当員を派遣している。全盛期の全国紙ともなれば1社で10人近くになるケースもあったろう。そうあたかも百貨店のアパレル派遣のように、代理店専門スタッフが新聞社に常駐に近い状態で活動していた。

 新聞には全面広告から始まって、紙面の下からの5段広告、題字下広告など多様な広告枠がある。その枠に、広告を出すクライアントを見つけることが広告局の営業の中心業務のはずだった。しかし実態は、代理店が主要な顧客獲得から紙面のデザインなどまで手掛けることが多くなり、新聞社の広告局はこの広告の管理が仕事になってしまった。

 営業現場を外部に任せる。すると広告枠営業を通したクライアント、そして顧客の動向を知る機会が奪われる。百貨店と同じように、市場と顧客の動向を探る大切なアンテナを新聞もまた失いつつあったのだ。
(※参考1 営業現場の重要性)

 編集中心主義の弊害
 
 社会や経済の動向を日々追い続ける新聞が、自らの周囲の広告市場の動向、変化に気づかない。そんな皮肉な状況が多くの新聞社で生まれていた。
 どの新聞社も経済面などで百貨店、スーパーの衰退を分析、解説もしただろう。しかしその知見や見識が自らの組織に反映できず、改革に結びつけることができなかった。

 これには新聞社特有の編集と営業の乖離、編集中心の組織とその弊害が影響していた。
 
 新聞社の営業には販売と広告、そして事業の3セクションがある。そしてこのセクションの社員採用は、大方が編集とは別枠で採られる。新聞社といえば一般にはまず記者をイメージする。ゆえにどの社でも記者職への応募は多く、それだけ採用されるのが難しくなる。

 採用の難易度のこの差が、新聞社内では後に大きな処遇の違いを生むのだ。

 最近では減ったようだが、販売と広告、事業も、そのトップあるいは幹部に編集出身者が座ることが多かった。編集のトップは編集局長や部門部長だが、それに就けない記者上がりの処遇のポストにされていたのだ。

 広告局の場合、編集上りが幹部ポストに就けば、当初はクライアントも付き合いの広告出稿をする。編集部時代の記者は、企業の広報にとっては役に立つ、あるいは批判を書かせれば面倒な存在だった。その流れで、記者が営業の幹部に就任すれば、当初は“お祝儀出稿”をする。しかしあとは続かない。

 そして記者は、たとえ経済部を経験し経済動向や金融に多少明るくなっても、経営についてはまともに学んだことがなく経験もない。たとえば取締役になり経営全般に責任を持つようになって、初めて財務諸表の読み方を学ぶケースも新聞社には多い。そのような経営の素人が、販売や広告の采配を握る。成果を期待するほうが無理と言っていい。

 編集から広告に配置換えをされた幹部が、広告における時代の変化を注視し、クライアント、そして市場の動向を探る現場の大切さに気付くことは至難だ。そして編集上りの外様営業幹部が座る組織では、その幹部が気が付かない、評価しない仕事に力を注ぐスタッフは少なくなる、いなくなる。
 これが広告市場の変化へ対応ができなくなった新聞組織の実態だと思う。

 紙面における広告枠を売るだけの営業から、新聞という媒体特性を生かした広告の提案。系列のテレビ局との連動企画、あるいは自社のネット媒体との連携企画などなど、これまでの手法を改革した本格的な成功事例が新聞業界にはほとんど見当たらない。

 新聞広告の落ち込みが始まったここ四半世紀余りの無策が、いま新聞事業そのものの凋落を招く大きな要因になっている。そしてその背景にあるのは、求人広告に始まる時代変化への対応ミスであり、それを生む新聞社の体質だ。

 かつて新聞は社会の木鐸だとよく言われた。その木鐸という言葉に、新聞人は密かなプライドを持ち、社会を変えるなどというような不遜な自惚れを抱いていた。すべてとは言わないが、そんな自尊心を抱く編集あがりには、営業の大切さ、難しさが理解できなかった、理解しようとも思わなかった。そのような幹部が時代の変化への鈍感さを生み、経営基盤の営業の遅れ、衰退を招いた。OBとして反省を込めながらこう考えざるを得ない。
(※参考2)

 

※参考1
 営業現場の大切さを教えてくれたある人物を思い出す。現在のマイナビ、元毎日コミュニケーションだったころの同社の幹部だ。今から20年近く前のことだろうか。当時、同社は週刊の将棋新聞などを発行し、パソコン関係の出版が当たり急成長していた。そこで幹部に、今何人の編集と営業担当がいるのですか、と尋ねた。幹部は「そういう聞き方をするから新聞社の人間はダメだ。うちは一定期間で編集と営業を総入れ替えする。一体だ。営業の人間が一番市場を知っている。それを編集にも生かし、経営にも反映させる」と返した。
 昭和48年に新聞、出版事業会社として創立した同社は、その後留学生の旅行、学校案内、平成に入ってはパソコンの解説本の刊行とスクールを展開。平成10年代以降は人材派遣を本格化し、今や就職案内と人材派遣部門では国内トップクラスの業績を上げ、ネット展開からブライダル、不動産事業を全国展開し総売り上げが1200億円を超えるまでになった。この時代に合わせた主要事業の変革の見事さは、あの幹部が説いた現場重視の視点が経営に反映された成果に違いない。

※参考2
 世間から頭が高いといわれる新聞社の取締役や幹部が、頭を下げる数少ない対象がその会社のメーンバンクだ。長年の巨額負債を縮小、返済できない新聞社の記者だったころ、当時のメーンバンクの取締役に経営のプロをボードに派遣する方針はないか聞いたことがある。彼の返事を今でもはっきり覚えている。「財務諸表の読み方もおぼつかない役員の多いボードに、銀行から取締役を派遣しても無視されるのは目に見えている。俺たちは金目当てで仕事をしてるんではないんだ、と一喝されるのはかなわないからね」。金利さえ払ってくれて潰れなければそれだけでいい。経営改革指導、支援など考えもしないというのが、銀行側の「見識」だった。

この項続く