新聞経営が見落としたもの その1

新聞事業の衰退の要因を探る

 国内の新聞事業は、2000年を越えてから衰退期に入っている。その衰退の要因は時代の環境変化への適応ミスであり、それを生んだのが新聞事業の余りに強すぎたビジネスモデルだった。

 これまで新聞の凋落は多く語られてきたが、その事業構造から振り返ったものがあまり見当たらない。新聞業界での40年余りの経験をもとに、一つの見方を提示してみる。

  日本新聞協会の調査では一般紙とスポーツ紙を合わせた発行部数は、2000年から昨年17年までに1158万部余り、21.5パーセント減って約4213万部。売り上げは04年から16年までの間に6122億円、25.7%減の約1兆7675億円にまで減った。そして減少率は年とともに高まっている(注1)。

   新聞事業は前世紀末にピークアウトしており、現在では新聞発行だけで収益を上げるのは難しく今生き残り策を模索している。

   新聞事業はなぜ衰退してきたのか。どこにその原因があるのか。

最強のビジネスモデル

  新聞はかつて国の産業分類で製造業に位置付けられていた。
この事業モデルの特徴は、生産から配送、販売まですべてを運営する一気通貫の業態だったことにある。

   現在存続する新聞社で最も古いといわれる毎日新聞の創刊は明治5年、1872年という。今年2018年で146年になる。朝日、読売もその前身が相次いで明治時代に創刊しており、新聞という業態は100年、一世紀を経ても有力な存在でいる。企業30年説などから見れば、極めて優れたビジネスモデルゆえに存続できたといえる。

 その業態の強さは先ほどの一気通貫事業、生産から流通までを支配することによって生まれた。そして商品のコアが、ニュースという日々変化する情報だった。ニュースは報道されれば一日で値打ちが落ちる。それゆえにそれを報ずる新聞は「生鮮食品」ともいわれる。そしてニュース・情報は近代以降、暮らし、社会生活に欠かせない「食物」になった。

 その扱い方と料理法、つまり情報の取材と編集、配信は技術進歩によって変わった。しかしニュースへの需要は高まりこそすれ、減少、消滅することは考えられない。ではその時代の「食物」を扱い強力なビジネスモデルだった新聞業界が、なぜ衰退しつつあるのか。

 OBとしての反省をしたうえ結論を先に言ってしまえば、その衰退の要因はひとえに新聞社内部の人間たちが自己のビジネスモデルをしっかり把握しなかったこと。そして時代に合わせてその事業モデルの改造、改革を怠ったことにある。

 少し具体的に言えば、新聞というビジネスモデルは大きな収益性と可能性を持ったものだった。ただ業界内部の人間たちがその可能性に気づかず、時代に応じた変革と再生の機会を見送ったことに衰退の最大の要因があると思う。

 後で詳しく説明するが、それは大企業になってしまったゆえに目前の変革に対応できない、一種のイノベーションのジレンマが起きていたといってもいい。下世話な物言いをすれば、新聞社はブランドもあり儲かりすぎたために、ハングリーさ、危機感を失っていたのだといえる。

事業領域の見落としと3つの失敗

 時代とその市場環境への適応ミス、機会喪失にはいろいろある。ここではその失敗の根幹を事業領域=事業ドメインの見落としにあるとし、その要因を3点指摘し、説明をしてみたい。

 3つとは以下の項目の失敗になる

1.新聞モデルの強みである宅配網、ラストワンマイルの軽視

2.求人広告の可能性を見通せなかった

3.紙による情報のポータルサイトという見方ができなかった

事業領域=ドメインの見落とし

 まず前段として、各項目に共通するのはその失敗の背景に自己の事業領域=ドメインをその時々に把握できなかったことがある。

 この「事業ドメイン」の説明には、19世紀後半から一世風靡した米国の大陸間鉄道会社がよく例示される。
 鉄道会社が自社の事業を鉄道と限定せず、輸送事業と把握していたら、その圧倒的な資金力とブランドで自動車や航空機事業をも支配していたはずだ。
 こう説いた元ハーバード・ビジネス・スクール教授、セオドア・レビットは、ハリウッドの映画事業会社も、自らの仕事をエンターテインメント事業としていれば、その後隆盛を迎えるラジオ、テレビ、テーマパークなどに転進できたはずだと指摘した。

 双方とも自社の事業領域、事業ドメインを狭くとらえてしまっていたのだ。彼はこれをマーケティング近視眼とも比喩した。

 事業ドメインの要素は、「誰に」「どんな価値(商品)を」「どのように提供するか」だ。新聞事業に当てはめれば、「市民に」、「ニュース(情報)」をという前二者には変化はないが、その最後の「どのように提供するか」が時代とともに大きく変わりつつあるのだ。

 新聞社がこれまで提供してきた媒体は新聞紙という紙だった。それゆえに印刷、輸送、配達というハードな生産、物流体制が必要だった。そしてそれには大きな設備投資を必要とした。

 輪転機は1セット数十億円もする。それを全国紙ともなれば各地に印刷工場を置くので数十、数百セットにもなる。また80年代以降急速に進んだ、印刷活字の組み版、原稿の集配信、そして編集システムも数十億から百億単位の投資を必要とした。
 しかしいったんそのシステムが完成すれば、商品の生産から配達まで一気通貫で支配するという極めて強力なビジネスモデルとなる。莫大なコストと時間をかけて完成させた装置産業は、外部からの参入障壁も高く、それゆえに一世紀を超える繁栄を謳歌することができたのだ。
 

 しかしそのモデルの強固さが、逆に内部の油断、ゆるみを生み、自らの事業業態、ドメインの検証を怠らせた。

以下3つの失敗を検討するが、それぞれのミスを生む土壌としてドメインの見落としがある。

失敗1.宅配網 ラストワンマイルの見落とし

 新聞の宅配を考える時、忘れられない話がある。ある販売局幹部が酒席で語ったものだ。
「宅急便のヤマトが創業間もないころ、配達を手伝ってくれないか、といってきた。しかし新聞は配達に遅れないよう毎日1分を争う商売をしている、他のことはやってられんと断った」
 話を聞いたのはもう20年余り前のことだ。話の真偽を確かめはしていない。しかしその可能性はあり得る話だったと、今になっても覚えている。

 新聞社の全国紙は、最盛期自社の新聞だけを扱う専売店と地元紙などもともに配達する合売店を含め、5000店以上の販売店網を持っていた。しかも毎日、配送をこなしている。これから宅配を目指す運送業が、その集配窓口などの提携先として新聞社を狙うのは当然でもあったろう。

 物流の分野では、商品・サービスが顧客に達する最後の区間、物流の最終拠点から顧客に届けられる最後の区間をラストワンマイルという。そしてこの最終区間を制する者が、生産から顧客までの流通ネットの覇権を握るともいえる。

 届け先が膨大かつ広域で、しかも配達時間の一定化が難しい。それゆえに簡単にシステム化や集配ネットワークを組めないのがこのラストワンマイルの最大の課題だ。

 そして半世紀も前から、このラストワンマイルをかなりのレベルで実現していたのが新聞業界なのだ。しかしその配達網の潜在的な可能性に気づかず、新聞各社は大きなビジネスチャンスを見送った。
 

 今、国内の売り上げが1兆3千億円を超えたアマゾンなど、物販系のネット販売が急成長を続けている。この販売物流の最終区間を支えているのが宅配サービスだ。取り扱い数は年間40億個(平成28年度)を超え、人手不足と過重労働が今業界の最大の課題になっている。

 そのような急速に拡大する市場のトップを占めるのがヤマト運輸だ。

  同社の2代目社長の小倉昌男氏が宅急便を企画、開業したのが1976年だった。
関東で始めた宅配事業の手ごたえを感じ、全国展開をもくろんだヤマト運輸にとって、最初の課題は、顧客からの荷物を受け付ける窓口であり、自社の配達網を補う戸別配達業者だったはずだ。

 いまその窓口として大きな存在になっているのが、コンビニエンスストアだが、セブンイレブンがその1号店をオープンしたのが2年前の1974年。10年後でもコンビニの店舗数は6千店をやっと超えるペースであり、70年代にはまだどのコンビニ業者も宅急便の全国展開に対応する店舗を持っておらず、ましてや戸別配達のルートはなかった。

 冒頭の話のように、創業当時、ヤマトが提携対象として検討し相手に新聞販売店が含まれていた可能性は高い。新聞販売店の70年代の店舗数が確認できないが、記録のある2001年で2万1千店を超えており、まだ新聞が部数増を続けていた70年代には25000店近くあったのではないか。

 新聞社は、この当時から毎日定時の新聞配送のネットワークを持っていた。都市部では朝夕刊の2便。朝刊は午前零時前後の極めて走行しやすい時間帯に、東京や大阪、福岡、名古屋など本・支社と印刷工場のある大都市圏から地方の市町村まで毎日多数のトラック便を走らせていたのだ。

 このトラック便だが、どの新聞各社もつい最近まで自社の新聞しか運ばない単独輸送が大半だった。それゆえ積載率などほとんど考えていなかったのが実情だった。部数の少ない新聞社は、ガラガラの荷台でもそのまま毎日走行させていた、そしてさらに帰りはカラの荷台での戻り。これを連日、全国レベルで続けていたのだ。
 たとえ配達時満載でも、帰りがカラの荷台であれば平均積載率は半分以下。しかもこんな非常識な非効率を続けていたのがつい最近までの新聞業界なのだ。

  信頼のラストワンマイル

 さらにこの新聞のラストワンマイルは、「信頼配達」ともいえる大変値打ちのある最終区間でモあった。

 70年代初め、当方が新人記者として或る地方の支局に赴任した時、歓迎会を開いてくれたのは地元の販売店主さんだった。店主さんはその地域の議会の議長まで経験した有力者「だんさん」だった。

 昭和の敗戦から急速に部数を増やした全国紙、地方紙は、地域販売店主に地元の有力者、企業家を選んだ。いわば名望家の経営ゆえに、〇〇新聞社販売店、というより、誰々さんの販売店、新聞店と呼ばれるところが多かった。つまり信頼性、地域のブランドがその販売サービスを裏打ちしていたのだ。

 信頼のラストワマイル。これは今のコンビニ、宅配業者でもなかなか築きえない貴重なサービスである。

 もしこのルートで、モノを売る、あるいはサービスを提供すれば、その信頼、ブランドがその商品にも付加されるはずだ。

 地方の新聞店は、大方が交通の便のいい街の中心に近い場所に置かれていた。主要道を毎日走ってくるトラック便からの荷受けに都合がよく、かつ新聞を個別配達しやすい所を選んだためだ。

 しかもその店を使うのは、夕刊のある都市部では早朝と夕方だが、地方では日中折込チラシの準備に使われるぐらいで、利用されない時間帯が多いのだ。

 話は少しそれるが、衰退の一途をたどる地方の商店街で、唯一といってもいいほど無難な経営を続けられたのが販売店でもあった。当方が支局長をしていた近畿の地方都市では、かなりの店主さんが寂れた「シャッター街」をベンツなど高級車で走っていた。

 新聞販売店は、新聞紙が毎日定時で届けられるために、商店にとって最大の課題でもある仕入れと在庫管理が要らない。必要なものは従業員の労務管理と顧客管理で、しかも集金は大半が現金、日銭が入る。一定の販売部数さえ維持できれば、極めて楽な店舗経営になるのだ。

 今老齢化の進む社会で、買い出しがしづらい人々への個別配送やサービス提供がより求められている。

 もし新聞販売店が、店舗を活用し信頼の配達網を利用するラストワンマイルビジネを考えたら、新たな地域のサービス拠点というブルーオーシャンのパイオニアに生まれ変わっていたかもしれない。

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※注1
 
なぜ部数と売上で調査期間が違うのか。協会でも加入新聞各社の経営数値をなかなか把握できない状況がうかがえる。
 業界で唯一ともいえる共同組織、一般社団法人日本新聞協会は、もともと業界の「倫理の向上」を目指したものであり、新聞事業の経営分析、調査は編集分野に比べ大きく遅れている。これは新聞業界の営業部門軽視の風潮の象徴でもある。有価証券報告をしている参加社が少なく、協会でさえ経営、営業実態を把握できないのが現状なのだろう。
 新聞の販売事業における状況は最近出版物もあるが、他の広告、企画事業などを合わせた新聞社総体の事業実態を押さえた資料は極めて少ない。新聞社は情報の公開を叫ぶが、自らの経営・営業実態については一部を除き、極めて閉鎖性が高い。

※注2
 地域のサービス拠点として先進的な成功を収めていた販売店を視察したことがある。紹介してくれたのは当時クレディセゾンの幹部で、百貨店なども経験した販売物流のプロだった。
 20年近い前のことで、アバウトは説明になるが、その全国紙販売店は複数店舗を経営し3000部以上を仕切っておられた。特徴は店主さん自らが作った顧客管理システムだった。
 さらにパートの女性5人ほどを使い、読者に定期的に電話をし、新聞配達の遅れはないかから始まっていろいろな相談まで受け付けていた。読者は数か月間隔の定期コールを受ける。やり取りは記録され、読者情報が蓄積される。こどもの誕生祝いまで声掛けできる。読者と店との信頼のパイプが築かれていた。

 驚いたのは地域で家電量販店などがセールを行う場合、このお店コールを通じて呼びかけると顧客動員力が2,30パーセントも高まっているということだった。

 新聞販売店の信頼配送網は、商品やサービス販売で高い収益性を約束すると教えていただいた。「本社にあおられての部数拡張をこれ以上続けたくない。拡張コストを考えると収益効率が悪い。お客との信頼パイプを利用して新しいサービスを築いていきたい」。こう語った店主さんの言葉が、新聞販売店の将来の可能性を示唆していた。

この項続く

 

 

 

 

新聞経営が見落としたもの その2

2.求人広告の可能性を見過ごしさせたもの

求人広告を奪われ米国の新聞破たん相次ぐ

   求人広告の媒体は今でこそネットが主流になっているが、以前は新聞がその主要媒体だった。そしてその多くが3行広告という形で扱われた。

   最近では、3行広告というと風俗店が大いに利用している。しかし新聞が普及してから全盛だったころまでは、求人や不動産の案内広告として新聞社の広告収入、経営を支える大きな存在だった。

 3行広告というのは狭い枠の中に極めて効率的に情報を収めている。安い価格で新聞広告をするため工夫されたシステムなのだろう。しかしそれを拡充し、新たな市場拡大をしようとした新聞の担当者がいたとは聞いたことがない。

 2000年を過ぎたころだっただろうか、この3行広告が大きな話題になった。それは日本でなく、米国だった。
 米国ではこの3行広告にあたるものはクラシファイド広告といい、新聞広告の4割近い売り上げを稼いでいた時代もあった。しかしこれがクレイグリスト社などネット広告に奪われ、米国の新聞社の息の根を止めると騒がれた。そして収入の8割近くを広告に頼る米国の新聞社は、クラシファイド広告の減少を引き金に経営破たんする社が続出した。それは著名な中央紙にまで波及し、今やワシントンポストでさえアマゾンの創業者でCEOのジェフ・ベゾス氏に買収された。

リクルートは競争相手にあらず?

 総売り上げの3割から半分近くを広告収入に頼っていた国内の新聞社も、求人広告の重要性、将来性に気づいてはいなかった。
 
   国内でこの求人広告に注目した人物がいる。リクルートを創業した江副浩正氏だ。
 1955年に東大に入学した江副氏は、2年生の時東大新聞に参加する。同新聞の経営基盤は広告収入だったが、当時は近くの喫茶店などの付き合い広告などを集めるしかなく、いったん経営破たんした後だったと記されている。その営業を担当した江副氏の注目したのが企業の求人案内広告だった。

 大学生の就職案内を柱に大学広告社として始まったリクルート社は、まず一般新聞社への求人広告出稿を大きく削り取った。以後住宅、アルバイト、転職、人材派遣、旅行にブライダルなど広告事業を大きく拡大し、半世紀余りで年間売上2兆円に近い巨大企業グループに成長した。

 そのリクルートの足跡を見ると、同社が築いた事業で新聞社が扱えないものは何もなかったことがわかる。米国のクラシファイド広告のネット化も新聞社ならすぐ対応できたはずだ。結果はともに見過ごした。

  後からやって来た小さな組織が、目の前で自分たち新聞社の持つ可能性をどんどん先に利用して拡大、成長していく。新聞で働く人間は、そこに競争心も焦りも感じなかった。

 ではなぜその新市場が発掘され、拡大していく潮流に新聞人は反応しなかったのか。求人広告をもとに当方なりの見方を紹介したい。

新聞広告局=百貨店 

 新聞社で広告を扱うのは広告局で、全盛期はどの社も販売に匹敵する組織と陣容を持っていた。若手も多く、難関だった新聞社の入社試験をくぐってきた優秀な集団だったといっていい。そのスタッフがなぜリクルートなどの求職、人材派遣を扱おうとしなかったのか。

 このシリーズのその1、物流への無頓着さと同じ繰り返しになるが、広告局の彼らもまたハングリーではなかったのだ。そしてその上司も変革の采配を振るおうとしなかったのだ。

 新聞社の広告局に出入りし、この態様、空気はどこかに似ている、と感じたことがある。百貨店だ。知人がある大手百貨店に勤務しており、その経営状況、業界動向をよく聞かされた。彼のオフィス、店舗を訪ねたことが何度もある。

 百貨店も1960年、70年代は就職を目指す学生の憧れの一つだった。三越、伊勢丹、パルコなど、時代の先端の商品を揃え、美術展など文化事業も催し、一つの文化の発信拠点でありステータスだった。

 その全盛期時代から始まったのが、アパレルメーカーなど外部に任せた売り場作りだった。
 メーカーが社員を派遣し、売り場のレイアウトから品揃えまで受け持つ。それにより、百貨店は売り場要員を減らすことができ、メーカーの専門スタッフの的確な商品提供で売り上げも伸びる。売り上げのマージンだけでなくスペースの提供料も加わり収益も上がる。いわば“場貸業”の広まりとともに、メーカー、ブランド依存の殿様商法が始まったのだ。

 このことにより百貨店は、自らが顧客と市場の動向を把握して学ぶ、大切な現場を失った。顧客が何を求めているのか、どう変わりつつあるのか。大切な市場を社員が把握できない。台頭してきた専門店、カテゴリーキラーやセレクトショップなどの脅威にも気づかなくなった。そしてネット販売への対応、あるいはそれらとの差別化などへの決定的な遅れを招いた。

 新聞に戻ると、百貨店と同様の状況がこの業界にも生まれていた。

 新聞社は全国紙に特に顕著だが、電通、博報堂など大手を主体とした広告代理店がその新聞社専門の担当員を派遣している。全盛期の全国紙ともなれば1社で10人近くになるケースもあったろう。そうあたかも百貨店のアパレル派遣のように、代理店専門スタッフが新聞社に常駐に近い状態で活動していた。

 新聞には全面広告から始まって、紙面の下からの5段広告、題字下広告など多様な広告枠がある。その枠に、広告を出すクライアントを見つけることが広告局の営業の中心業務のはずだった。しかし実態は、代理店が主要な顧客獲得から紙面のデザインなどまで手掛けることが多くなり、新聞社の広告局はこの広告の管理が仕事になってしまった。

 営業現場を外部に任せる。すると広告枠営業を通したクライアント、そして顧客の動向を知る機会が奪われる。百貨店と同じように、市場と顧客の動向を探る大切なアンテナを新聞もまた失いつつあったのだ。
(※参考1 営業現場の重要性)

 編集中心主義の弊害
 
 社会や経済の動向を日々追い続ける新聞が、自らの周囲の広告市場の動向、変化に気づかない。そんな皮肉な状況が多くの新聞社で生まれていた。
 どの新聞社も経済面などで百貨店、スーパーの衰退を分析、解説もしただろう。しかしその知見や見識が自らの組織に反映できず、改革に結びつけることができなかった。

 これには新聞社特有の編集と営業の乖離、編集中心の組織とその弊害が影響していた。
 
 新聞社の営業には販売と広告、そして事業の3セクションがある。そしてこのセクションの社員採用は、大方が編集とは別枠で採られる。新聞社といえば一般にはまず記者をイメージする。ゆえにどの社でも記者職への応募は多く、それだけ採用されるのが難しくなる。

 採用の難易度のこの差が、新聞社内では後に大きな処遇の違いを生むのだ。

 最近では減ったようだが、販売と広告、事業も、そのトップあるいは幹部に編集出身者が座ることが多かった。編集のトップは編集局長や部門部長だが、それに就けない記者上がりの処遇のポストにされていたのだ。

 広告局の場合、編集上りが幹部ポストに就けば、当初はクライアントも付き合いの広告出稿をする。編集部時代の記者は、企業の広報にとっては役に立つ、あるいは批判を書かせれば面倒な存在だった。その流れで、記者が営業の幹部に就任すれば、当初は“お祝儀出稿”をする。しかしあとは続かない。

 そして記者は、たとえ経済部を経験し経済動向や金融に多少明るくなっても、経営についてはまともに学んだことがなく経験もない。たとえば取締役になり経営全般に責任を持つようになって、初めて財務諸表の読み方を学ぶケースも新聞社には多い。そのような経営の素人が、販売や広告の采配を握る。成果を期待するほうが無理と言っていい。

 編集から広告に配置換えをされた幹部が、広告における時代の変化を注視し、クライアント、そして市場の動向を探る現場の大切さに気付くことは至難だ。そして編集上りの外様営業幹部が座る組織では、その幹部が気が付かない、評価しない仕事に力を注ぐスタッフは少なくなる、いなくなる。
 これが広告市場の変化へ対応ができなくなった新聞組織の実態だと思う。

 紙面における広告枠を売るだけの営業から、新聞という媒体特性を生かした広告の提案。系列のテレビ局との連動企画、あるいは自社のネット媒体との連携企画などなど、これまでの手法を改革した本格的な成功事例が新聞業界にはほとんど見当たらない。

 新聞広告の落ち込みが始まったここ四半世紀余りの無策が、いま新聞事業そのものの凋落を招く大きな要因になっている。そしてその背景にあるのは、求人広告に始まる時代変化への対応ミスであり、それを生む新聞社の体質だ。

 かつて新聞は社会の木鐸だとよく言われた。その木鐸という言葉に、新聞人は密かなプライドを持ち、社会を変えるなどというような不遜な自惚れを抱いていた。すべてとは言わないが、そんな自尊心を抱く編集あがりには、営業の大切さ、難しさが理解できなかった、理解しようとも思わなかった。そのような幹部が時代の変化への鈍感さを生み、経営基盤の営業の遅れ、衰退を招いた。OBとして反省を込めながらこう考えざるを得ない。
(※参考2)

 

※参考1
 営業現場の大切さを教えてくれたある人物を思い出す。現在のマイナビ、元毎日コミュニケーションだったころの同社の幹部だ。今から20年近く前のことだろうか。当時、同社は週刊の将棋新聞などを発行し、パソコン関係の出版が当たり急成長していた。そこで幹部に、今何人の編集と営業担当がいるのですか、と尋ねた。幹部は「そういう聞き方をするから新聞社の人間はダメだ。うちは一定期間で編集と営業を総入れ替えする。一体だ。営業の人間が一番市場を知っている。それを編集にも生かし、経営にも反映させる」と返した。
 昭和48年に新聞、出版事業会社として創立した同社は、その後留学生の旅行、学校案内、平成に入ってはパソコンの解説本の刊行とスクールを展開。平成10年代以降は人材派遣を本格化し、今や就職案内と人材派遣部門では国内トップクラスの業績を上げ、ネット展開からブライダル、不動産事業を全国展開し総売り上げが1200億円を超えるまでになった。この時代に合わせた主要事業の変革の見事さは、あの幹部が説いた現場重視の視点が経営に反映された成果に違いない。

※参考2
 世間から頭が高いといわれる新聞社の取締役や幹部が、頭を下げる数少ない対象がその会社のメーンバンクだ。長年の巨額負債を縮小、返済できない新聞社の記者だったころ、当時のメーンバンクの取締役に経営のプロをボードに派遣する方針はないか聞いたことがある。彼の返事を今でもはっきり覚えている。「財務諸表の読み方もおぼつかない役員の多いボードに、銀行から取締役を派遣しても無視されるのは目に見えている。俺たちは金目当てで仕事をしてるんではないんだ、と一喝されるのはかなわないからね」。金利さえ払ってくれて潰れなければそれだけでいい。経営改革指導、支援など考えもしないというのが、銀行側の「見識」だった。

この項続く

新聞経営が見落としたもの その3 了

ヤフーになぜ負けたのか
新聞社系ニュースサイトの敗因

 新聞事業の衰退を決定的にしたのは、ネットによるニュース配信の普及だった

 数年前から東京の地下鉄で新聞を読む姿はほとんど見かけなくなった。通勤時間帯は乗客全員がといっていいほど、スマートフォンと携帯、あるいはタブレットに見入っている。その多くが見ているのは、ヤフーなどの報道機関以外のニュースサイトだ。
 新聞社など報道機関もそれぞれが独自のニュースサイトを持ってはいる。しかしネットニュースの利用が本格化して以来、国内のニュースの閲読率、ページビュー(PV)の大半を占めるのがヤフーはじめIT、ネット系企業のものだ。ここ5年ほどの間に、アプリケーションを配信して読者を獲得するスマートニュースやニュースピックスなど、新しいネットニュースも加わった。その中でヤフーで日々の出来事をチェックする人は報道系サイトの数十倍にのぼり、今や新聞以上の影響力を持っている。

 新聞やテレビ、あるいは雑誌をベースにした報道系ニュースサイトと異なり、ヤフーなどポータルサイト系は、大半が報道機関からの提供情報で、ほとんど独自の取材、編集はしない。
 それに比べ報道系は、自ら取材、編集してネット配信もできる。その要員もシステムも、そしてブランド力も資金力もあった新聞社は、なぜネットニュースでここまで遅れをとってしまったのか。

 もう十数年も前の話だが、当方が新聞社のメディアセクションに赴任した際、当時六本木ヒルズ森タワーにあったヤフー本社に挨拶に伺った。すると井上雅博社長や後任社長となる宮坂学さんら幹部が総出で応対してくださった。その後もヤフーには様々な支援をいただいたが、その手厚い応対をなぜ受けられるのか。自社メディア局の古手社員に尋ねことがある。

 彼の説明はこうだった。
 ヤフーは1996年日本橋箱崎町のビルの3階で創業した。わずかな社員でコンテンツ集めに苦労している頃、新聞社が初めてニュースをヤフーに納入した。「新聞社との取引が信用を生んだ、という経験を幹部の皆さんは覚えている。それへの感謝もあって今も厚遇してくれるのだと思います」。真偽をヤフーに確認したわけではないが、一貫してヤフーは、私たちだけに限らず、既存報道機関との競争を避け、その収益基盤とブランド力を大きく成長させた。

 ヤフーは16年秋にそれまでの六本木の東京ミッドタウンから永田町に近い東京ガーデンテラス紀尾井町に移転した。36階建てでオフィス26フロアーのうち20フロアー使っておりYahoo!ビルと言ってもいい。今や収益は年間9000億円近く、6300人を超す従業員の大企業に成長した。
 その間、新聞社系のサイトの収益は良くて数十億円レベルでの微増、ないし横ばいでしかない。
 そのヤフーの入る高層ビルを見上げながら、なぜここまで差がついたのか、疑問は膨らんだ。

遠流の島 

 なぜ新聞社はヤフーに後れをとったのか。
 1世紀前後もの歴史の中で築き上げたブランンドを持ち、取材編集スタッフと設備、システム、資金力、どれ一つとってもヤフーに負けないはずの新聞社が、どうして負けたのか。

 ヤフーが箱崎の狭いビルの一角で発足してから20年余りしかたっていない。我々のようの新聞業界にいた者からすると、宮坂前社長の言う「爆速」に近い成長だ。そして新聞社はその当初からニュースを提供し、その成長過程を一部始終見ていたはずである。その目指す市場の可能性に新聞社は気づいていたのか、無視したのか。

 新聞社の中には、ヤフーの創立の1年前に自社のホームページを立ち上げていた社もある。ヤフーの開業当時、もうすでにネットを使ったニュース、情報の配信サービスも実現していた。当時、新聞社が持っているIT系のソフト、ハードの技術力、ノウハウは、ヤフー以上であったはずだ。そしてニュース配信におけるネットの将来性に気づき、それを説くものも少数ながら居た。
 その気づきがなぜ新聞社の中でメジャーになりえなかったのか。本格的なネット展開に発展しなかったのか。

 そこには新聞社の中でのデジタルウェブ情報・ネットを扱うメディアセクションの存在感、立ち位置が絡んでいる。

  10数年前、当方がメディアセクションに赴任したその日、歓迎会でメディアの営業幹部から言われた言葉がある。

「あまり張り切りすぎないように。ここは社内で一番離れた遠流の島なんですわ。改革だなどと騒いだところで本社の中枢には届きはしないのだから」。

 多かれ少なかれ、どの社にも花形のセクションと日陰の部門がある。新聞社で言えば、編集の取材部門が花形で、整理部そして調査セクション、さらに営業となっていく。あるいは出版、事業などを加え、編集局からそれぞれへの異動を、「島流し」ととらえる輩もいた。 

 新聞社の中で出版局はまた異質の存在で、「別の島」になっていた。出版セクションはどの社内においても大方が万年赤字経営で、存在感が薄かった。
 給与は本社ベースでいながら、企画で組織の存続が左右されるような一般出版社のような緊張感がなかった。その放漫経営を見直すため今ではほとんどが別会社組織にしているが、以前はそこへの赴任を「島流し」とみる人間も多かった。

「一番遠い」とはその出版局よりさらに離れて一層存在感がない、という意味だった。確かにメディアセクションには「遠流の島」の空気があった。

 メディア部局は万年赤字であった。売上が年間数十億円前後のセクションで毎年数億円もの赤字を続ければ、現場の収支、金銭感覚はおかしくなる。ちょっとやそっとの経費を削っても焼け石に水。節約という言葉が使われない。

 例えば契約社員も加えれば200人近い従業員で、部長級以上が1割を超える。要はライン部門で幹部に慣れない人間たちの処遇のポストが遠流の島で用意され、給与のみ部長、副部長級など高給部員があふれていた。
 なんの仕事をしているか仲間でさえわからないスタッフがいた。机に着いているのを誰も見かけたことがない部員もいた。
 人だけでなく、パソコン等の部品管理もできていない。書き出せば切りがないが、ある意味おおらかな自由な組織だった。これが当方の経験だが、当時の新聞社のメディアセクションというのは大体似通ったものではなかったか。

 そのゆるみの中で、目の前のネット市場の可能性を声高に説いても、なかなか改革につながる可能性は薄い。たまに先進的な試みをしても、評価されそれを事業拡大まで持ち込む体制ができなかった。

 非主流のメディア技術

 ネットのニュース配信に欠かせないのはネット系のIT技術だ。この技術スタッフがまた育ちにくく、外部から採用することもほとんどなかった。

 新聞社は以前紹介したように製造業でもある。何トンもの大型高速輪転機に始まり、新聞の配送システム、記事の集配信システム、取材のための通信システムなど多様な生産設備が必要だった。

 各社は昭和30年代からの鉛活字を廃止し、電算写植の採用、ファクシミリによる紙面伝送、さらには制作過程全般へのコンピュータ導入と、時代の最先端を行く技術を蓄積していた。その大半が数十億、数百億円の設備投資で、三菱重工やIBM、富士通、キャノンといった大手メーカーと提携しながら、いつも先端技術の開発、導入を続けた。大きなスケールと先進性。その中でノウハウを学び、体験した技術集団は、高いプライドを持っていた。

 それゆえに、本体の印刷、制作部門からメディアセクションに出される技術スタッフにもまた島流しという負い目を感じる者が多かったと思う。

 編集、営業、技術とそれぞれの部門で、メディア事業の黎明期に今のネット時代を予想し、大きな夢、事業構図を描いて市場開拓を目指す、そのような意気込みが不足していた。ここに疑問に答える一つの敗因がある。

 販売店への遠慮

 もう一つの出遅れ、敗因は新聞販売への気遣いだ。

 先ほど記したように新聞記事のデジタル配信は、ヤフーの創立時にはすでに実施に入っていた。その配信にあたって、価格設定が全社レベルで本格的に検討されたという記録はみあたらない。配信そのものが実験レベルに毛の生えたようなもので、また課金の方法も当時は見当たらなかった。

 記事をタダで配信したら新聞が売れなくなる。そんな声が出始めたのは2000年以降ではなかったろうか。ヤフーのほかにニフティ、ライブドアなどそしてグーグルニュースなどが国内でも始まり、ネットニュースの存在が新聞社内でも知られ始めた時期だった。

 記事の全文を出すな。特ダネを出すな、掲載時間を遅らせろ。販売セクション、そして経営サイドから、メディア事業部に時々に色々な牽制が入っていた。
 本社が恐れたのは、販売店の反発だ。部数を拡張するために必死に顧客を回っていても、後ろからタダの新聞情報を配られたら売り込みができない。おおむねこんな苦情が出始めていた。そして駅やコンビニでの即売が、じわじわ減り始めてもいた。

説明されない電子新聞代

 新聞の印刷、配送、配達というコストがかからないとすれば、新聞のニュース、情報コンテンツは大幅に下がるはずである。長年業界の経営情報に接してきたが、新聞代から見たコスト分析というものを目にしたことがない。読者が払う新聞代のうち、取材編集費がいくらで、その配送コスト、会社維持の固定費など、具体的な経費分析には無頓着な業界だった。
 ゆえにデジタル、ネット新聞という新商品に対し、合理的な値付けができなかった、ともいえる。

 今の各社のネット新聞は紙の新聞をベースにして、それから「心持ち安くした」価格になっている。月4000円前後の紙の新聞の購読料に対し200円前後下げがたものがネット新聞代だ。では4000円の新聞代のうち、紙代と配送費は200円ほどしかかかっていないのか。「心持ち」の根拠が説明されたことはない。

 そのような、あり得ない不合理な価格設定が今もまかり通っている。

無料配信の失敗

 先に記したように、朝日や毎日などの大手新聞は、1996年のヤフーの創業前からニュースのネット配信を始めていた。その当初は試行レベルでもあり、どこも無料で配信した。もともと紙で使った後の情報であり、それに広告でも入れば、というような受けとめ方だったのだろう。新聞社は無料で配信を始めたことで、あとあと自らの収益性を大きく損なうことになる。

 複数社のニュースを素早く見せるポータル系のニュースサイトは、新聞社の単独サイトより情報が多いなど利便性が高く、急成長した。しかもそこで扱うニュースは、格安の価格で各報道機関から調達できた。新聞社は当初無料で配信しており、その後も合理的な価格の要求、値上げもできない状況が続いた。

 当初、朝日や読売はポータル系などへのニュース提供をしなかった。自社サイトの差別化と安価なコンテンツ提供を拒んだわけだが、最終的にはヤフーを筆頭とするIT系サイトの集客力を無視するわけには行かなかった。配信拒否だった報道機関も、今やほとんどがヤフーにコンテンツを販売している。このコンテンツ料金は公表されていないが、いずれも制作コストからは遠く乖離した低料金のはずである。

 その料金でも、提供側にすればリンクを通して自社のサイトに読者に来てもらい、PVを引き上げるというメリットもある。PVが上がれば、広告収入も増える。そしてヤフーのトップページのニュース枠などに扱われれば、自社の数十倍のもの情報拡散をしてもらえる宣伝効果もあるのだ。

ネット特性の抑制

 もう一つのネット新聞への歯止めとして、記事の配信時間を調整があった。
かつて新聞社のネット情報は、紙の編集の締め切りに合わせて配信されていた。あくまでも紙の締め切り、印刷、配達時間が主体であり、特ダネも事件も紙よりも先にネットの読者に届けるわけには行かなかった。
 

 そんな中で、ネットの特性を生かし、いつでも最新のニュースを配信するという、WEBファーストという動きが米国から始まった。2007年ごろ国内で初めてウェブファーストを掲げたのは産経新聞だった。販売部数が少なく、販売店も力がないのでできること。業界ではそんな冷ややかな受け止め方が大半だった。
 
 ここにも新聞社のネットに対する基本戦略の誤りがあった。ネットの特性を生かさず、価格設定もおろそかにし、あくまで紙の新聞しか眼中にない。これがヤフーなどに後れを取ったもう一つの敗因だった。

 ヤフーは今300社余り450の媒体からニュースなどのコンテンツ提供を受け、選択した情報を24時間無料で速報している。年間のPVは1500億と、各新聞サイトの数十倍もの読者を持っている。速報性、多様性、無料。ネットの特性をフル活用したネット専門媒体と既存の報道機関のニュースサイトの競合はすでに勝負が見えているのだ。
 
 以上、ヤフーへの敗因は、新聞社の内部体制と紙の新聞への遠慮だとみてきた。要は紙の新聞へのこだわり、妄執を取り除けなかったのだ。

 従来の新聞社は、紙を媒体にニュースや広告を展開し、その生産、流通を一気通貫で把握することで高収益を得ていた。いわば「紙のポータルサイト」での成功だった。

 もし新聞社が、自らの存在、事業ドメインを「紙」から脱却した「情報のポータルサイト」と見直していたら、ネットにも即座に対応し21世紀も情報の主役、王者でいられたはずだ。

この項 了

 

調査報道とフェイクニュース

   はじめに

   当方は新聞社に入り、主に事件、司法畑の記者として過ごした。
その後、デジタル報道セクション、経営企画部門を歩いた。
ある意味、新聞というビジネスモデルが最後に存在感を保てた時代だった
かもしれない。
    今振り返ると、編集においては今の時代への危うさを感じ、
新聞の存続、経営という視点では、いろいろなこれまでの失敗に気づく。

   そんなことを思いつくままに記していきたい。

 

調査報道とフェイクニュース その1

調査報道には機密リークとカネが要る
そして肝心な記者の取材力は?

 ワシントン・ポストの記者コスト
 ワシントン・ポストの社主キャサリン・グラハムを主役にした新作映画「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」を観た。監督スティーヴン・スピルバーグが、それまで手掛けていた他の作品も置いてこの映画を先に完成させたという。気に入らないマスコミをフェイクニュースとして攻撃するトランプ大統領への批判が、そこにある。

 スピルバーグがこの映画で今一度注目させたかったのが、権力を監視する新聞をはじめとする報道の存在の重さだったと思う。そしてそのコアは調査報道だ。しかし今、フェイクユースの氾濫と調査報道の衰退が世界的な趨勢ではないか。こう危惧するのは当方だけでないはずだ。かつて取材の現場を経験した者として、内側から見た調査報道の実像、難しさを書き記してみたい。

 キャサリンを演じたメリル・ストリープのほか、ワシントンポスト編集主幹ベン・ブラッドリー役がトム・ハンクスだった。スピルバーグ監督を含めアカデミー賞受賞のベテランで固めたこの作品は、演技、映像とも見応えがあった。
 その中で、当方が思わず映画館の暗闇の中でメモをしたのがメリル・ストリープ、つまりキャサリン・グラハム社主のつぶやきだった。

 優秀な記者を引き抜きたいと、グラハムとブラッドリーが話し合うのだが、そこでゲラハムがこうもらす。「300万ドルあれば25人の記者が雇えるわね」。

 再現されたこの場はニューヨークタイムズがペンタゴン・ペーパーズをスクープした1971年6月の直前のはずである。同年8月ニクソンショックがあり、それまで1ドル360円の固定相場だった為替レートが年末は320円台まで落ち、その後下降の一途になる。しかしキャサリンの発言当時は1ドル360円弱のはずだ。となると300万ドルとはざっと10億8千万円。記者一人の雇用に4320万円かかると社主は計算したのだ。
 当時、ワシントンポストはまだローカル紙だが、その評価は高まりつつあり、他紙に比べれば記者職は高給を得ていたはずである。給与のほかの福利厚生や記者の取材費、活動資金を顧慮すれば、記者一人当たりの会社負担はそれ位の額になるかもしれない。とにかく取材の質を上げるには、カネがかかる。このやり取りに、当方は大いに納得した。

 巷のジャーナリズム論議では、すぐ調査報道の必要性やあり方が対象になる。 しかしその調査報道が成立するには、まさにキャサリン・グラハムのいうカネが前提になるのだ。そして調査報道はコストと同時に、下手をすれば会社を崩壊しかねないリスクも伴う。

 映画でも紹介されているが、ペンタゴン・ペーパーズをスクープしたニューヨークタイムズは、ニクソンによって国家機密の情報漏えいを犯したとして刊行の差し止め請求を提訴される。

 ワシントンポストが後追い報道をすれば、国家機密漏えいの共謀として刑事訴追を受ける危険性は大きい。経営基盤の安定のために、当時まだ株式上場をしたばかりのワシントンポストだった。グラハム社主は、取締役、金融機関、そして顧問弁護士からも掲載の取りやめを示唆される。しかし映画ではグラハムはこんな言葉を残し掲載を決断する。「自由で制限のない報道という存在が唯一、政府がついた嘘や欺瞞を効果的に暴くことができる」。

 金食い虫のスクープ

 話を国内に移す。
 調査報道という視点を国内に向けてみる。現場といってもささやかなものだが、著者はかつてその一端に属したことがある。その分野に居た者として「調査報道」のモデルとして思い浮かべるのは、朝日新聞のリクルート報道と今回の森友・加計学園報道だ。

 1988年に朝日がスクープしたリクルート事件報道は、もう大方の記憶の彼方のニュースだと思う。われらブンヤ稼業をしていたものは、当時この調査報道の端緒を作ったのが、朝日新聞の横浜支局だったことに驚いた。支局はいわば新聞社の新入り記者養成所で、ベテラン事件記者はほとんどいない。

 江副浩正クルート社元会長が撒いたリクルートコスモスの未公開株に絡み、川崎市助役に収賄の疑いのあることを公にしたスクープだった。まだ事件取材に慣れない支局員を采配し、本社事件記者顔負けの取材力を発揮させたのが、当時の山本博支局次長だった。やがて本社記者も動員し、政界、財界、マスコミのトップクラスの疑惑を次々に明らかにした朝日新聞だったが、なぜか新聞業界トップの顕彰制度である日本新聞協会賞が取れなかった。

 この背景には競合他社の牽制があったが、これはまたの機会にする。朝日新聞内部そして過去の経過を知るものは、今回こそ調査報道の典型としての協会賞受賞を期待するだろう。

 この森友学園問題は、国有地売却の疑惑を解くために豊中市議が情報公開を求めて問題提起をし、それにこたえるように問題点を取材報道したのが2017年2月の朝日新聞紙面だとも言われている。おそらく同社大阪社会部が担当し、18年3月の財務省文書改竄のスクープまで、何十人もの朝日新聞記者が関与しているはずである。
 このような長期取材が必要な取材対象については、専従チームが組まれるはずだ。先ほど数十人と書いたが、そのうち継続担当する専従記者は、経済的にも人的にも余裕のある朝日新聞社でも10人以内ではないだろうか。

 冒頭の記者の雇用コストに話が戻るが、米国ほどの高給ではないといえ、国内では最高ランクの報酬体系の朝日新聞社の記者を仮に10人、1年間専従させるには、恐らく人件費だけで1億数千万円、それに取材費を加え、さらに会社としての福利厚生費などを計算すれば2億円近くかかるのではないか。そこに応援部隊もいれれば数億円をかけた総経費がいるはずである。

 調査報道は金食い虫で、マスコミ経営の足しにはならない。これが当方のささやかな実感でもある。

 ある疑惑事件で、デスクだった当方含め6人の取材チームを組んで4か月余り取材を続けたことがある。この経費計算は、カネがかかり過ぎるという編集総務長への弁明、担当記者連中への注意のために始めた。

 関係者の自宅の夜回りや朝駆け取材、それに出張取材も加えた経費をまとめ、それに6人の期間中の人件費を加え、掲載された原稿の文字数で計算してみた。いまから四半世紀余り前の話だが、新聞の1文字について約3千円、つまり13字1行の新聞では、記事の1行当たりの取材コストで4万円近く。ちなみに、一人当たりのひと月のタクシー代が40万台から80万円台と最大の経費だった。

 現場記者は取材と執筆で極端な睡眠不足になる。取材先への行きかえり、また対象者の帰宅待ちのタクシー内が記者にとり貴重な睡眠スペースになる。疲労しきったスタッフの顔を見ると、使い過ぎと文句も言えなかった。

 本来は会社の負担する福利厚生、固定費などの担当記者分担金も加えなければならず、掲載原稿量当たりの総コスト1行4万円を超えていただろう。
いわゆる調査報道がいかに金食い虫であるか、少しはわかっていただけると思う。

 そして悲しいことに調査報道のスクープで部数が大幅に増えたという話は聞かない。長年新聞社にいて、特ダネで部数は何万部も増えました、とは聞いたことがない。特ダネと販売購読部数の相関関係を調べた販売局もないはずだ。

 ゆえに調査報道の拡大は、経営基盤の安定しない新聞社のボードにとって必ずしも歓迎するものではない、というのが定説だった。

 テレビ局も同様に、ニュース報道取材はカネがかかるばかりとの嘆きを、役員から幾度も聞いたことがある。
要は、現状では報道機関に経済的な余裕がなければ、インパクトのある組織的な調査報道はほとんど不可能なのだ。

 この項続く

調査報道とフェイクニュース その2

 ハングリースポーツ

   調査報道の実現に欠かせないカネの話をその1で紹介してきた。しかし取材経費より重要な前提条件は、やはり担当記者の取材力、編集力だ。

 調査報道担当には、事件・司法記者あがりが多い。
 かつて朝日新聞社の警視庁など事件持ち場は、「外様記者」で支えられていると言われたことがある。大方の競合他社はどの持ち場でも朝日より記者数が少なく、それゆえ仕事が多く、給料も数十パーセント低い賃金で耐えていた。
 朝日はその競合他社の記者を引き抜いて、事件記者を陣立てしていると言われた。産経や毎日、そのほか地方紙の有能記者がスカウトされた。前回紹介したリクルート事件をスクープした横浜支局次長の山本記者も、北海道新聞からの引き抜きだった。警視庁や検察庁になど、厳しい取材競争を強いられる現場の朝日記者は、他社からの転向組が多かった。

 警察や検察庁の取材現場は、常に事件を抱え、その捜査経過を取材しながら朝刊、夕刊と特ダネの抜き合いをする。負けが重なり、ストレスで身体に変調を来す者もある。私が現場にいたころ、検察担当になって十日余りで胃潰瘍になり出血、職場替えになった仲間もいた。

 体はもったとしても、数か月あるいは半年も他社に特ダネを抜かれまくれば他の取材セクションか地方支局に飛ばされる。

 この“ハングリースポーツ”ともいえる取材合戦の中で、あらゆる手段を使って取材相手に食い込み、取ったネタの重要性、信頼性を値踏みし、できる限りの裏付けをして記事にまとめる。対象への粘り強いアプローチで取材の壁を越えることを体得した調査報道向けの事件記者が、こうして育っていた時代だったと思う。そして安い給料、少ない人員など劣悪な環境で育った記者ほど、ハードな取材戦に生きのこるすべを養ったともいえる。それが先ほどの外様記者を生む土壌だった。

 また映画の話に戻る。

 前回紹介したペンタゴン・ペーパーズが公開される一か月ほど前、別の映画「ザ・シークレットマン」が封切られた。監督は自ら報道記者、従軍記者を経験したピーター・ランデズマンだ。

 この作品は「ペンタゴン・ペーパーズ」の最後のシーンに描かれていたウォーターゲート事件が舞台だ。この事件の調査報道の主要メンバーの一人、ワシントンポストの記者ボブ・ウッドワードらに極秘情報を与えていた内部情報漏えい者、この事件で名づけられたディープ・スロートを主役にしたものだ。つまり1976年制作で大ヒットしたアカデミー賞受賞映画「大統領の陰謀」を、密告者側から捉えたウォーターゲート事件が映画化されている。

 この映画は、調査報道のもう一つの大切な要素を教えてくれる。

 調査報道とは、別な視点からすれば内部通報者、告発者の支援を受けた報道ともいえる。後ほどもう一度触れるが、忘れてならないのは輝かしいペンタゴン・ペーパーズやウォーターゲート報道も、内部情報提供者、漏えい者、いわゆる「ディープ・スロート」という匿名の協力者がいて初めて実現したものだと言うことだ。
それに記者の取材力が対応できたとき、スクープは生まれる。

 ウォーターゲート事件のディープ・スロートは誰か。
 1972年6月の事件発生から33年後の2005年5月、その主が名乗り出た。事件発生からニクソンの辞任まで米国の連邦捜査局(FBI)のNO2副長官だったマーク・フェルトだった。彼は、FBIの創設以来の長官で秘密情報によって歴代の大統領さえ操ったといわれるジョン・エドガー・フーバーに長年仕えた。
 謹厳実直かつ敏腕な官吏だったフェルトが、なぜFBIの捜査記録という最高機密をワシントンポストのウッドワードに漏らしたのか。FBIのウォーターゲート事件捜査への大統領府の妨害や、自身の長官昇進の見送りなど、フェルト側の動機を映画でたどることができる。ただ、この映画でも判明しないのが、そのような信頼関係をウッドワードがどう築いたかだ。

 人間懐柔力

 フェルトとウッドワードの出会いは、ウォーターゲート事件の3年ほど前に遡る。
 1969年から70年,ウッドワードは海軍大尉で国務省勤務だった。重要書類を運ぶ伝書使いとしてホワイトハウスにも出入りした。ある日国家安全保障会議幹部も執務室の待合で、彼は「人の上に立つ人間」と観た男の横に座る。その同席しただけの短い時間のうちに、ウッドワードは自己紹介から、今後の自分の進路についてまでその男に相談をする。その男が「秘密の世界の中枢にいる」と読み取り、「興味津々でよだれを流さんばかりに身を乗り出して話した」とウッドワード自身が書き記している。その男がフェルトだった。

 そして以後、ウッドワードはフェルトにしばしば電話をし、会い、やがてはフェルトの自宅にまで押し掛けるようになる。その後新聞記者になりたての時代も、フェルトにアドバイスを求めているのだ。

 一度の出会いで、相手が役立つと思ったら、逃さず食い込み、太い情報パイプを作ってしまう。ウッドワードの天性の才能のようなこの人間懐柔力に驚く。

 この出会いも含め、ウッドワードとフェルトのやり取りは、最高レベルの機密を取材する難しさ、厳しさを教えてくれる。特にウォーターゲート事件の展開中は、ニクソン大統領府やCIAなどの監視と追及、妨害工作で、取材は幾度も頓挫しかける。そのリスキーな環境下で、極めて周到な連絡を続ける緊迫した二人の姿は、ウッドワードがまとめた「ディープ・スロート 大統領を葬った男」(文藝春秋刊)にビビッドに記録されている。そして先の出会いも含め、ウッドワードが若くして人の洞察力に秀で、また相手にも信頼される誠実な人間であったこともわかる。
 先の著作の中には、ウッドワードの相方のカール・バーンスタインも登場するが、地方検事や政府関係者などから秘密情報をつかんでくるその取材力も素晴らしい。

 ここで記者の適性について考えてみたい。
 調査報道の大方の取材対象は、政府や官庁、大企業などのブラックな機密事項だ。権力や財力が、その周囲に取材を許さない極めて厚い保秘の壁を築いている。踏み込んで調査しなければ、決して公にされないネタが対象だ。なんの調査特権も持たない記者は、そこに自分の意志、気力、体力だけで切り込まなければならない。

 調査報道の記者は大抵は最初取材相手に嫌われる、拒否される。その壁には気力や体力だけでは通用しないことも多い。
 経験から言えば、最初は嫌われようと最後には相手に受け入れられ、信頼される、そこにまで持ち込む力、こなれていない言葉だが「人間力」が欠かせないのだ。人間力とはいささかあいまいな表現だが、記者の性格、姿勢、そのうえで築かれる対話能力、そんな総合力をここでは意味している。IQとは違う、EQ(情動の知能指数)の要素が重きを置く適性だ。

 取材先にひと月近く毎晩のように記者を行かせても、何の情報も取れない相手がいた。それが担当記者を変えた途端、2度目の取材で核心のネタを確認できたことがある。先に通っていたのはいわゆる事件に強い記者であり、後詰は科学部からの異動組だった。調査報道の記者は事件畑育ちだけでは限界がある、と教えられた。

 このように難しい対象の取材に、記者の誰もが対応できるわけではない。これも経験則だが、記者が10人にて、先ほどの壁をなんとか乗り越えられる記者は1人か2人。もっと少ないかもしれない。断っておくが、調査報道にあたる記者が優れ、他が劣っているというのではない。適性の有無をいうのだ。調査報道だけでなく、新聞にはほかにも多様な適性を必要とする部門がいくらでもある。

 この項続く

調査報道とフェイクニュース その3

 調査報道の醍醐味 朝日新聞の報道から

 教科書的に言えば、調査報道は権力監視に欠かせない部門であり、民主主義を支える報道の主たる役割の一つだ。その取材の実態は極めて高コストであり、また厳しい取材環境に耐えられる記者の存在が欠かせない。
 一方取材する側から見ると、これほど手ごたえのある仕事もまたない。調査報道の内側が、報道と同時に表に出ることはあまりないが、紙面だけでも十分その緊張感は読み取れる。

 例えば今回の森友学園関連で財務省の決裁文書介在問題のスクープ記事を見てみる。
 第一報の3月2日付朝日新聞朝刊の一面は、トップに凸版見出しで「森友文書書き換えの疑い」と打ち、縦見出しで「財務省、問題発覚後か」と掲げた。

 朝日は改竄された財務省決算文書を入手し、それと前年に開示、公開された同じ決裁文書を綿密に比較し、改竄を確認しただろう。さらに関係者に裏付けし、改竄を確信したはずだ。そのうえでまとめられたはずの記事だが、横凸版の見出しでは「疑い」とし、縦見出しでは、書き直しは「発覚後か」と断定を避けた。関係記事はナシ。一面の本文のみで切り込んだ感じだ。

 当初「疑い」としたこの記事は、「朝日新聞VS安倍首相、朝日の社長の首が飛ぶか」などとネットでも騒がれた。慰安婦問題以降、朝日新聞への攻撃が目立っていただけに、確かに万が一、改竄が誤報になれば朝日の信用失墜は取り返しがつかなくなる。
 朝日新聞社は、グループとして4000億円を超す売り上げで経常利益が約150億円、純資産3300億円余り(いずれも2016年度)と、まだまだ業界内では安定した経営基盤を持つ。豊富な不動産収入になどに支えられるこの新聞社が、経営的にすぐ破たんすることはない。しかし新聞社の「信頼」はその存在の根幹であり、誤報であれば社長は引責辞任を求められ、600万部ともいわれる部数も大きく減るだろう。

 第一報の記事は情報の出所を示さず、開示済みの文書との細かな比較を抑えている。むろん入手したとみられる未開示決済文書のカット写真もない。
 改竄は、安倍昭恵総理夫人や政治家など関与した人物名を削除し、交渉経過の一部なども省いており、書き換えは310か所になると後の報道で明らかにされた。

 この未開示文書のポイントとなる事実を、敢えて2日のスクープ時の紙面で掲載を控えた背景もいろいろ考えさせられる。「文書の起案日、決済完了日、番号が同じでともに決済印が押してある」とは第一報で表記しているが、これだけで改竄文書と断定できるわけでなく、渡辺雅隆社長の首がかかった記事を公表できるはずもない。入手先とは別の関係者への裏打ち取材や、他の関係機関関係者からの確認もしているはずだ。

 その上で、極めて抑制の効いた内容を第一報にした。この抑制には、ネタ元、改竄文書提供先への配慮もあったかもしれない。
 しかしもし財務省が全否定するならば、具体的な改竄部分を連日小出しにして紙面をつなぐ。そして最後には改竄を認める関係者証言でダメ押しをする。そんな展開戦略もあっただろう。

 矢面に立つ財務省は、朝日新聞の取材先を必死に探り、どこまで掴んでいるか確認を急いだはずだ。その結果が1週間後の元財務省理財局長の佐川国税庁長官の突然の辞任であり、12日の財務省理財局の書き換え謝罪となる。この財務省の慌てた対応ぶり、急速な展開は、そこまで追い込んだ今回の朝日新聞の調査報道の信頼性や手堅さを証明しているといっていい。

 滑稽な現象だが、3月11日朝刊で朝日を除く読売、毎日、産経、日経の各紙はいずれも一面で「森友文書書き換え認める」とトップニュース扱い(日経のみ4段見出し扱い)で報じた。ところが朝日はこのニュースがなく、翌日国会報告当日の12日朝刊で伝えた。
 これを「朝日の特オチだ」とはしゃいだ競合紙幹部がいた。しかし実情は朝日への追いかけ取材に来た各紙記者に、財務省か政府関係者が意図的に朝日抜きでリークしたのではないか。不祥事などをスクープされて追い込まれた関係者が、その特ダネを抜いた社の記者だけ外し、処分などの重要情報を抜かれた他社にリークし担当記者の顔を立てる、というのは、業界ではしばしばあったいじましい慣行だ。

 朝日新聞は4月10日朝刊で、加計学園問題で愛媛県文書に獣医学部新設が首相案件だと首相秘書官が述べたという記録がある、との新たなスクープを掲載した。安倍首相、官邸が前面に出てきたこれも大きなインパクトのある特ダネだ。当の元秘書官の全面否定になっているが、今回こそ他紙も積極的に参加し、事実確認と全容解明に調査報道を進めてほしい。

 そして今回の森友・加計学園をきっかけに、インパクトのある調査報道の広まりに期待したい。難しい取材対象に果敢に踏み込み、丁寧かつ厳密な事実確認をしたうえでの報道の持つ力、重要性を多くの人が気づけば、フェイクニュースなど隅に追いやられていくはずだ

 

ディープ・スロート 内部通報者の大切さ

  調査報道にはカネがかかる。そしてその展開には適性のある記者が欠かせない。そしてもう一つ欠かせないのが、不正などに気付き、それを告発しようとする内部通報者=ディープ・スロートの存在だ。

 先ほど紹介したが、FBI副長官のマーク・フェルトの情報提供、示唆がなければ、世紀の大スクープ、ウォーターゲート事件解明はなかったはずだ。そしてペンタゴン・ペーパーズのダニエル・エルズバーグ。最近ではNSA(米国国家安全保障局)などによる個人情報収集の手口を告発したことで知られるエドワード・スノーデンがいる。いずれも政府や関係機関の権力の暴走を食い止めるために、自分の職、人生をも賭してジャーナリズムへの機密提供を決断した。

 告発したいと考えても、それを受け止め公表し、改革まで結び付けてくれる窓口がなくては、告発、通報の実行は難しい。その窓口としての信頼性、実力が報道機関に求められる。

 ネタの性格に違いはあるが、スキャンダル情報が週刊文春、新潮に集中するのも、同週刊誌にはそれなりの取材力があり、記事として公表し、一定の影響力を発揮するという実力を持っていると世間が認めているからだ。いわばこの「週刊誌的信頼性」は財務省事務次官のセクハラ問題でも活用されたのだ。
 社会的不正行為、事案に対して それを調査報道し、改革の動きにまで展開しうるという信頼性。それを報道機関は求められている

 またそのような調査報道が実現していけば、また告発する人を支援し、また不正を見過ごさないという社会の風土を育てていくはずだ。 

 この項続く

調査報道とフェイクニュース その4 了

 顔を見ない記者たち

 調査報道に多大なコストがかかることは前回までに示した。そして次に調査報道にあたる記者の適性についても少し紹介した。この記者の資質について補足したいのは、昨今の記者の取材スタイルである。

 テレビなどで観る記者会見の光景を思い起こしてほしい。
 昨今の政治家、官僚、企業幹部の記者会見では、ほとんどの記者が必死にノートパソコンのキーボードを叩いている。ぶら下がり取材という対象者との立ったままの取材でも、記者はスマホやICコーダーを相手に向けている。

 昔の記者もたまに録音機を使ったが、いつもは先輩記者から録音器具を使うな、メモばかり取るなと叱られた。
 録音機を向ければ、相手はホンネを話しづらくなる。もっと大事なことは、録音やメモに頼ると、話す相手の表情を読み取ることがおろそかになる。 人間を見る目が育たない。例え相手がNOといっても、その言葉遣い、表情からYESと読み取ることができなければならない。YESとNOの間、デジタルで言えば0と1で判定できない、割り切れない隙。そこに人の真意を読み取って取材の確証を掴んでいく。この取材能力の大切さが、かつては先輩から後輩に受け継がれていた。

 現代の記者にはネットの検索能力も大切なのだろう。また情報公開法の利用技術も欠かせない。しかしそのようなシステム的に集められた情報の信頼性を裏付ける最後の手段は、やはり関係者の証言、リークであり、その正否を見抜く取材記者の能力なのだと思う。調査報道には、この取材力が欠かせない。

 保秘の壁を張り巡らす相手でも、真意を見抜きその懐に入っていく。そんな記者を育てるシステム的な方法はなかなか作りえない。やはり記者は現場で事件に揉まれ、多様な取材対象、人々に取材しながら教えられるしかない。各紙のかつての著名記者は、やはり優秀な先輩、ライバルを持ち、厳しい事件に遭遇し、その中で育ったといっていい。限られたセクションで有力な記者が輩出する時期がどこの社にもあったはずだ。

現場、事件が記者を育てる

 事件とライバルが記者を育てる。一つ事例を挙げておきたい。
 昨年17年11月に亡くなった原寿雄氏と斎藤茂男氏(1928~1999)、ともに共同通信の記者だった2人の歩みだ。
 1952年大分県直入郡菅生村の駐在所を共産党員が爆破したとされた菅生事件が起きた。しかし真犯人は現職警察官ではないかとの疑惑が沸いた。逃亡して東京都内に潜むその警察官の居所を、二人は突き止めて本人取材し、犯行を裏付けることに成功した。このスクープは二人の連携取材の成果であり、その後の調査取材の原点とも称される。
 
 以降、原氏は報道の自由の大切さを訴え、発表ジャーナリズムの危険性を指摘し続けた。また斎藤氏は戦後日本の家族や教育現場の崩壊を数々のルポルタージュで残し、圧巻の取材力を発揮した。共同で取材した二人は、その後はある意味ライバルとしてそれぞれに大きな働きを残した。 
 

 最近は原氏に比べ、斎藤氏の評価が少ないと思い、蛇足だが一つのエピソードを紹介したい。

記者嫌い?寂聴さんが誉めた記者

  斎藤氏はかつての再審無罪事件、徳島ラジオ商殺害事件(1985年再審無罪判決)でも大きな役割を果たしている。それを教えてくれたのは瀬戸内寂聴さんだ。
 瀬戸内さんは、ラジオ商の夫を殺害したとの冤罪を受けた冨士茂子さんの支援を続けていた。徳島地裁での再審裁判の判決が迫った当時、瀬戸内さんに判決評価を書いていただくよう、前もって京都の寂庵にお願いに行ったことがある。
 挨拶でいきなり「私は記者ってあまり好きじゃないのよ」と言われ怯んだ。しかしすぐ笑顔で「でもその見方を変えたのが斎藤さんよ」と話してくれた。

 徳島ラジオ商殺害事件は1953年に発生した電気店店主の殺害事件で、内縁の妻、冨士茂子さんが実行犯として13年の懲役判決を受けた。有罪の根拠となった店員の目撃の偽証を訴えたのは茂子さんの姉弟などだが、当時のマスコミは注目しなかった。弟は東京の司法記者クラブまで出向いて無実を訴えた。大半の記者が関心を見せなかったが、その中で唯一本格的に取材を始めたのが斎藤氏だった、と瀬戸内さんが教えてくれた。
 
 東京から徳島まで斎藤記者は何度も通ったという。
 私も教育現場取材で斎藤記者と出会い、そのブルドーザーのような取材力に圧倒された経験があった。しかし連日大事件の判決、訴訟が続く東京の司法担当で、その多忙の合間を縫って四国まで調査に幾度も出向く。そこまで粘り強い取材を続けていた斎藤さんの姿に、また教えられた。

 その斎藤さんにある会合で出会ったときの言葉がある。齊藤さんは菅生事件で原さんと組めたことが大きな励みになったと振り返りながら、「記者は事件で育てられるのだ」との言葉を残した。

 共同通信は、数々の優秀な記者、作家を生み出している。そこに原と斎藤、二人の足跡が大きな影響を与えていると思うのは当方だけではないはずだ。

 魑魅魍魎のような人間が絡みあう事件の事実を解きほどいていく。それが記者を育てる。人に会い、ぶつかり、保秘の壁を乗り越え、信頼関係さえも生む。調査報道はその人間的取材力を求め、育てていく。

 安倍内閣は第二次内閣発足以来5年を超え、昭和の時代以降、佐藤、吉田に次ぐ長期政権になった。評価は別にして、株価は上昇し、対外政策でも一定の実績を挙げつつある。それゆえに、今回の森友・加計学園問題につき、マスコミが騒ぎすぎる、という批判もある。

 確かに国有地売却、獣医学大学建設の事業は国政レベルから言えば、些末かもしれない。しかし仮に些末だとしても、そこに安倍首相の意向、あるいは指示があり、行政のルールが破られたとしたら、そのこと自体が公正な行政の崩壊になる。そしてその隠ぺいは、国会の存続を危うくする。総理の指示、意向を隠すものがまさにフェイクニュースであり、その意味で今回はフェイクニュースと調査報道の勝負ともいえる。

 今回の森友・加計学園問題の報道を機会に、フェイクニュース論議より、インパクトのある調査報道に関心が集まり、広まることを期待したい。難しい取材対象に果敢に踏み込み、丁寧かつ厳密な事実確認をしたうえでの報道の持つ力、重要性を多くの人が気づけば、フェイクニュースなど隅に追いやられていくはずだ

 今回は、報道機関における調査報道につき思いつくことを書き記したが、調査報道は組織に属さないとできないものではない。内閣総理大臣田中角栄を失墜させた立花隆にはじまり、政府、官庁、大企業、警察、検察などの不祥事を暴いたフリーのジャーナリストも多い。

 またネットの普及とともに、傍聴、監視など権力による市民の権利侵害が増えた。それに対抗するかのようにビッグデータなどネット情報を使った調査報道など、新しい潮流もある。

 話しがあちこちに飛んだが、今回の朝日新聞のスクープを機会に、ぜひ若い人々に調査報道の重要性を見直してほしい。そしてその取材の大切さを知ると同時に、挑戦するに値するエキサイティングでかつ意義のある仕事であることを知ってほしい。

 冒頭に調査報道には金がかかると書いたが、その構造をどう改革できるか。調査報道に関わる記者をどう増やし、育てるか。この面でも今後考えをまとめてみたいが、みなさんの提案、指導がいただければ幸いだ。

この項 了