自立した老いとは 恩師の書簡より      その5

平成14年(‘02年)830
(加藤さんが原田さんに送った便せんから)

   私はもう90歳。明日はありません。

 今日一日のいのちです。だから
  今日一日を大切にしよう
   むだにしては もったいない

  どんな悩みも苦しみも
   今日一日なら辛抱できる
 
  
人も動物も草や木も
   明日はもう会えないと思えば
      
限りなく愛おしい

  明日は無いのだから
    金や物に執着しても仕方ない
 
 夕べになったら
    あゝ一日生きられたと
      感謝して眠りにつこう

             盛夫

 

(加藤さんの葉書から)

 

自立した老いとは 恩師の書簡より      その6

 平成14年(‘02年)2月16日 加藤さん91歳
(加藤さんから原田さんへの手紙)

 暖かくなったと思うと、きびしい寒波の日がやって来たので、春はまだまだのようですが、お変わりなく元気に忙しいことでしょう。開設する新学科の学生募集の状況はいかがですか。軌道に乗るまではまだいろいろ御苦労の多いことでしょう。御健闘を祈っております。

                                  小生も
なんとかやっています。足腰が弱りで歩行が困難なのは閉口ですが、年齢を考えればそれも仕方ありません。座ったり腰掛けたりしていれば、なんともないので有難いことだと思っています。乱筆でさぞ御迷惑かとは思いながら、手紙を書く気になるだけでもまだましだと思っています。

 近頃、教育問題、教師の資質問題、児童生徒の学力問題など、教育のあれこれが政治の課題にのぼっていることを新聞やテレビニュースやらで目にすると、もう今では教育など全く関係ない暮らしをしていますが、それでもあれこれ考えさせられます。雀百まで踊り忘れずのたぐひでしょうか。話す相手も無く、ときどきノートの端に思いついたこと(多くは不平、不満ですが)あれこれ少しずつ書き散らして自己満足しています。こんなことが気になるだけでもまあいいか、などと思ったりもしています。
 
 目が悪くなったせいか、手の感覚がおかしくなったせいか、生来の乱筆がいよいよひどくなり、これも閉口です。手紙もさぞ読みづらいことと思いますが、お許しください。
 
 教育ばかりでなく、政治も経済も、社会の仕組みも、明治以来営々と築かれてきた日本の社会生活(個人の考え方や生き方も)大きな曲がり角に近づきつつあるような気がします。
 どうなるだろうと興味もありますが、私のいのちの方はもう残り少ないので、変わった日本の姿を目にすることは出来そうにもありません。

 こんな寝言のような手紙を書く気になるのも貴君だけです。話したい友人はみんな亡くなったか、ボケたかです。
 時々、思いついたことや感じたことをノートの端に書き散らす位で自己満足することにします。字を書くことも少しはボケ防止の足しになってくれると有難いですね。

 出来るだけペンや筆を握るとともに、今年は声を出して本を読む、音読をしてみたいと考えています。長い間、黙読に慣れて来ましたが、独り暮らしでものを言うこともなくなりましたので、子供時代に戻って大きな声で、好きな文章の一節などを読んでみたいと思って、ぼつぼつ始めています。いつまで続くかわかりませんが、これもボケ防止だと思っています。

 乱筆を承知の上でこんな手紙を読ませるのは、さぞ御迷惑と思いますがお許しください。
 おかしな感想文(老人のくり言)2枚同封します(※)。お笑い草にしてください。
  まだまだ寒い日がありましょう。御自愛ください。

        二月十五日                 盛夫

 原田 雅司 様  
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※ 「老人のくり言2枚」の内の1枚はこのブログの「その3」で紹介した「誕生日に」と思われます。もう一つの感想文は今探しています。
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自立した老いとは 恩師の書簡から      その7

 平成16年(‘04年)1月12日  加藤さん93歳

感想文(ノートの切れ端に)

☆一歩、一歩、歩き続ける人生を

 歩み続けることは楽ではないが
 休まず歩き続けよう

 ゆっくりでいい、少しずつでいい
 胸を張り、頭をあげ
 自信をもって歩いて行こう

 歩みを止めれば腐敗する
 速く駆ければ 続かない
 一歩一歩が 一番いい

☆ゴミ追放

 環境浄化、ゴミ追放は時代の要請
 怒るな、恨むな、グチるな

 皆 心のゴミ
 環境浄化は 心の中にも

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 以下は加藤さんの原田さん宛て絵葉書です

自立した老いとは 恩師の書簡から      その8

平成17年(‘05年)3月29日  加藤さん95歳

 老人天国の現代老人福祉施設を見ると、家の片隅にひっそり寝ていたり、終日一人ぼっちで日向ぼっこをしていた昔の老人たちの姿に比べて、全く天地雲泥の相違があります。まさに此の世の極楽の感です。但し、この極楽も無料ではありません。地獄の沙汰も金次第という言葉は、昔ばかりではないような気がします。老人を恰好の金もうけターゲットとみている人が居なければ幸いなのですが・・・。

 閑話休題

 新しい老人の介護、福祉の施設を拝見すると、広々とした部屋、バリヤフリーの行き届いた施設、静かで緑に囲まれた環境、居室あり食堂あり娯楽室あり、リハビリー施設、入浴施設ありという具合で、戦後苦労して手に入れた自宅に比べると、言葉通りの極楽世界です。

 体力が落ち、行動能力が衰え、いろいろな感覚機能も弱くなった老人、日々自分の生活にいっぱい不便と不安を感じながら、それに耐えて日々を送っている老人達に、何の苦労も心配もない、安全快適な生活が提供されています。

 移動しようと思えば直ぐ車椅子があり、歩行介護があり食事は食堂の椅子に座れば直ぐ運ばれてくる。身のまわりの掃除、洗濯も自分でやる必要は何もない。入浴も衣類の着脱もみんなやってもらえる。どれも自分で後片付けなどする必要は全く無い。買い物に行くのも用足しに行くのも、ベットや車椅子の上から、お願いしますといえばすべてかなえられます。リハビリーを受けるにも、散歩をするにも常に介護者がついていて何も心配する必要が無い。まさに天国の暮らしとでも評すべきであろうか。

 だが、一寸待ってよ。

 幼児を育てるときに、彼等が、まだ体力不十分であり行動力不完全であって、何をしても失敗が多く、不完全だからと言って、すぐに周囲の大人達が手助けしてやることが、その成長、習熟に必要なのであろうか。少しは失敗があり、あぶないことが有っても、注意して見守りながら、それを経験させることによって成長して行くところに幼児教育の大切なところが有るのではなかろうか。

 昔から、老人に甘やかされて育った子は駄目になるなどとと言われたのも、子供が自分で出来ないことがあっても、それを長い目で見守ってやることの大切を言っているように思われる。
 苦労しても、自分でやってこそ子供は力をつけて育っていくのであろう。

 注意して見守りながら、自主的な活動をさせてやることが幼児教育の秘訣であるとしたら、老人の介護についても、それが何らかの参考にならないだろうか。

 自分で目標を決めて、それが完成しようとするときには少々の苦労も時間も忘れるものであり、自分のきめた目標が完成するとき、初めて生きている喜び、働く喜びを感じます。

 綿密な介護スケジュールも大切であるが、自分自身に目標をきめて、その目標に向かって努力することも大切に思われる。

 介護、福祉の施設の中では、それが一つの集団社会である以上、入居者がそのスケジュールに従ってもらわなければ、社会生活の維持はできないであろうが、入居老人の一人ひとりが自分の生活目標を持ち、自由自主的に運動することが大切であろう。

 きちんとした生活スケジュールの中に、どのように自主活動を組み込んでいくか、集団としての活動と個人活動をどう調和させていくか。
 集団生活と個人生活の調和、バランスをうまく組み合わせて行くことは、とても難しいことと思われますが、それはとても大切なことではないでしょうか。

 多数の入居者が、秩序正しい集団生活をしながらも、その一人ひとりが心から自分の生活や目標を持ち、生きている自覚と喜びの中で充実した老人生活が送れたら、これこそ真のごくらく暮らしとなることでしょう。

 日本の社会が老人天国となることを、心から祈っているのが老人の本音です。

 「有料島流しさ」と自分をあざけっている入所中のある老人
 
 「お金のある人はいいね、貧乏人の私たちには縁のない世界ですよ」とあきらめ顔の独身老人

 「お母さんが施設に入って呉れたおかげで、やっと自由な生活ができます」と、やれやれという顔のお嫁さん

 「あれだけ立派な設備の施設に入れておけば、誰にも親不孝なんていわせないよ」と自慢している新興の成金

 ほんとうに、親や老人の幸福だけを思って施設に入れているのだろうか。厄介払いの入所はないだろうか。他人への「みえ」や「ていさい」保持のための入所は無いのか

 入所後しばらくすると誰も来ない入所は?

 

「○○〇もおだてれば、木に登る」というあざけりが有りますが、「ほめ」上手の原田雅兄にうまく乗せられて、少々いい気分になって恥知らずの駄弁を重ねているようで、少々ならず気が引けますが、老人の寝言と思って辛抱してくだされば有難いことです。

 年とともに気力も無くなり、何をしても注意の集中時間が続かなくなって、物を考えるのも、文章を書くのも十分に意を尽くさないうちに疲れて、投げ出したくなります。

 文章を書いても誤字、脱字も多くなれば、文字も乱れて読みづらく、恥ずかしい限りですが、老人の世迷い言として読んで下されば幸甚です。

 これからも思いついたことがあったら書いてみますから、御笑覧下されば幸いです。
                                盛夫

 

 

自立した老いとは 恩師の書簡より      その9

 平成17年(‘05年)4月18日 加藤盛夫さん95歳

「わらしがへり」讃歌

 北の国では、幼童を「わらし」と呼び、年老いて少しぼけが始まったかと思われるような老人を「わらしがへり」と呼ぶとか聞きました。私などもまちがいなく「わらしがえり」の境に入りました。
 
 気力も体力も衰えたし、記憶はうすれ、視力も聴力も日々弱くなりました。
 ともすれば生きる自信を失い、諸事投げやりになり勝ちです。けれども臆することも、めげることも無いと思っています。

 「わらし」は素晴らしい人間存在のかたちです。「わらし」と呼ばれることに誇りを持とう。
 「わらし」には、物欲も金欲も名誉欲もありません。他人を怨むことも憎むことも不要です。素直に自分の心に従って生きて行けばいいのです。他人の評価やうわさなど気にする必要は無いのです。

 「天衣無縫」に生きられるのは「わらし」の特権です。「天上天下唯我独尊」でいいのです。素晴らしいではありませんか。

 「わらしがへり」の老人達よ、引っ込んでいないで胸を張り、頭を挙げて「わらし」戻ったぞと声をあげよう。

 長い歴史を生きて来た、自分の人生に誇りを持とう。
「わらしがへり」は終着駅ではなくて回生の出発駅です。

 「わらしがへり万歳」
                                  盛夫

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時期がずれ上の手紙から10年余り前の加藤さんの絵葉書です。

 

自立した老いとは 恩師の書簡から      その10

 今回はこの書簡のやり取りをされていたお二人を紹介します。

 加藤盛夫さんは明治44年(1911年)のお生まれです。
 ご家族の話では、関東奥多摩のお寺の住職の息子で、愛知県の尾張旭に引っ越して来られたといいます。この間の事情は分かりませんが、家が貧しく旧制中学へ上がれなかったと、ご家族は加藤さんからお聞きになっているようです。
 加藤少年の学校の担任が、ここで終わったのでは惜しいと話をされ、周りの支援もあったのでしょう、官費の愛知第一師範学校に入学、教師になられたようです。「苦労した少年時代、若い時のことはあまり語らなかった」とご子息は述べておられます。
 教師としては名古屋市の東築地小、米野小等を経て、上野小校長から最後が豊国中学校長を歴任し、退職後は教え子の経営している建設会社で顧問格として働いておられました。平成21年(‘09年)8月に99歳で逝去されました。

 原田雅司さんは昭和10年(1935年)の愛知県生まれ。昭和33年(1958年)名古屋大学教育学部卒業、小中学校の教員経験をされ、愛知県の民生部に移られました。
 児童、障害者の福祉現場で指導され、愛知県庁の児童・障害者福祉の課長、高齢化対策室長などを歴任されました。
 その後岡崎女子短期大学の副学長を務められ、岡崎市の社会福祉審議会などで活躍されました。主に高齢者、障害児・者の福祉についての専門家として活動をされています。
 
 お二人の出会いは、原田さんが上野小学校に赴任された昭和34年です。加藤さんは同校の校長でした。新任教員の原田さんは大学卒業直後で、2年間加藤校長の指導を受けておられます。
 本人も実にいろいろな試みをされていました。自筆のガリ版刷りの学級通信を児童とその親に届けられ、きめ細かな対話を実践されていました。お世話になった児童の一人として多くの思い出がありますが、このシリーズ第1回のブログで紹介した、「子供たちと同じ目線で」接していただいたエピソードを一つ紹介します。
 
 ある日の授業後、先生は「みんなに話があります」と全員を残しました。「先生は結婚します。そしてしばらく新婚旅行にでます」。そして先生は、相手の女性との出会い、その人が自分にとってどんな存在で、なぜ結婚をすることにしたのか、を丁寧に説明されました。
 小学6年生の私たちに、先生の言葉の意味が十分分かったとは申しません。しかし先生が、いかに真剣に相手の女性を考え、新しい生活を始める決意をしたのか、その真摯な気持ち、姿勢は十分伝わってきました。

 その原田先生に、「結婚について子供たちにしっかり話してやるといい」とアドバイスをくれたのが加藤校長だったと、原田さんが振り返っておられます。
 
  この加藤校長も、私たちの記憶にくっきりと姿の残る先生でした。
 当時は毎日のように朝礼があり、全児童が校庭に並び、先生方の話を聞きます。
 そこで毎回のように加藤校長がおっしゃった言葉があります。

 「君たちは大切な子供です。お父さん、お母さん、先生にとって、そして世の中  にとって大切な子供なのです」
 「それを忘れず、自分を大切にして学んでください」

 その言葉の重さを、当時はあまりわかりませんでした。しかし繰り返し耳に入った加藤校長の言葉は、その後自分が成長する過程で、何度も蘇りました。

 加藤校長が伝えたかったのは、かけがえのない自分に気づき、大切にしろ、というアドバイスだったと思います。
 その「かけがえのない自分」という認識は、加藤さんご自身の生き方にも通じているのではないか。いまこのシリーズで晩年の書簡を読ませていただき、そう気づきました。

 老いに対しても、他人に頼らず自分で出来る限り対応する。その加藤さんの姿勢の裏付は、自分を大切にする、見失わない、つまりかけがえのない自分を他人に任せない、ということにあるのではないでしようか。

 私たちは戦後の団塊世代の子供でした。6年生の時は一クラスが56人で、一学年が10 クラスもあったのではないでしょうか。教室が足りないために、午前中だけの授業のクラスと午後からのクラスに分ける、2部授業もありました。百人近い先生であふれた教員室で戸惑った記憶も鮮明です。
 一つの小学校の児童総数が3千人を超すなどという、今からすれば信じられないほど過密な教育環境があちこちにありました。

 「マンモス校」という言葉もありました。そのようなすし詰めでかつ巨大な教育環境ではありましたが、今振り返ると、先生と児童のつながりは結構濃厚なものではなかったか、と思います。教師と児童との深い結びつき。それを良く築き得た時代を支えた教師の一つの象徴が、ここに紹介する加藤校長、原田先生の姿だったといま納得しています。

 団塊世代がいま高齢者になりました。皆これからの生き方に戸惑いを覚えています。この書簡を読みながら、老いのなかで「かけがえのない自分」をどう守るのか。今また小学校時代の先生に教えていただいている感じがします。

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昭和36年(‘61年)5月上野小学校6年6組が奈良に修学旅行をした時の写真です。
最後尾中央が加藤校長、その右が原田先生です。

自立した老いとは 恩師の書簡から       その11

 平成16年(04年)1月9日     加藤盛夫さん 94歳

 病院でいつものように診察を受け薬をもらって戻ると、郵便受けに素晴らしい薬師寺東塔の絵(※原田さんの絵葉書)が待っていてくれました。
 新年最高のプレゼントです。薬師寺、唐招提寺の西の京は、戦後のまだ若かった私に仏像や仏閣の美しさを最初に教えてくれた所です。

 会津八一さんの南京新唱の歌集や和辻哲郎先生の「大和古寺巡礼」の文章を読みふけったのも西の京の寺や仏像にめぐり会ってからです。薬師寺の建物の、あの独特の構成を「波にゆれる竜宮城のイメージ」とか「凍れる音楽」という素晴らしい表現で教えられたのも驚きでした。

 戦後まだそれほど遠くない時でしたから、今日のように東西両塔や大講の並ぶ薬師寺ではなくて、参詣人の人影も無く、東塔だけが高くそびえ、西塔心柱の礎石の穴のたまり水に東塔の姿が浮かんでいました。そのあたりに寝転んで、飛鳥の昔を偲ぶことの出来た遠い思い出は、私の宝物です。

 唐招提寺の境内なども草茫々の有様でしたが、あの雄大な講堂の建物を仰いだ時は、ほんとうに心をうたれたものです。ギリシャ建築のエンタシス構造に似ている列柱だと教えて下さった師範学校の歴史の先生は、薬師寺の金堂仏像は世界最美のブロンズ像だとも教えて下さいました。その時の思い出が今もまざまざと心に浮かんで来ます。

   蛇足ですが心に残る短歌二つ三つ記します。
 
      (佐々木信綱)
 秋さむき唐招提寺鵄尾の上に夕日うすれて山鳩の鳴く
(秋さむき唐招提寺の鴟尾の上に夕日は照りぬ山鳩の鳴く)

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

  (会津八一)
  しぐれふる のずえ(ゑ)のむらの このまより 
                                                             みいでてうれし やくしじのたふ
 
  すいえんの あまつをとめが ころもでの
                                                             ひまにもすめる あきのそらかな

 あらしふく ふるきみやこの なかぞらの 
                                                              いりひのくもに もゆるたふかな

  (与謝野晶子)
 劫初より つくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ
(この歌は西の京の寺を歌ったものではないと思いますが、私は薬師寺や唐招提寺を思うたびにこの歌が心に浮かびます)

 

   この頃視力がおかしくなり乱筆甚だしく、読みづらいことと存じますがお許しください。

  今日はこんな手紙を書きましたので絵はありません。足が弱り、どこへも行けず残念ですが、これが年をとること、グチは言わぬようにと自分を慰めております。
 こんな便りが書けるだけでも幸せと感謝しています。いただいた絵は早速額に入れて座右に置きます。 万謝

                一月九日
                            加藤 盛夫
   原田 雅司 様

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 加藤さんが原田さんに送った葉書です。表の上段のメモ (H5)は(H15)
の間違いのようです。

自立した老いとは 恩師の書簡より       その12

  平成17年(‘05年)6月29日        加藤先生94歳
 
 今年もまた去年のように「暑い々々」とグチを言う季節になりました。雨が少ないだけ去年よりきびしそうです。
 サンデー毎日の夏の暑さが格別に身にしみて来ることでしょう。体調など格別に御用心ください。
                               小生のような
老躯には、この夏が越せるだろうかと思う不安までついてまわります。せいぜい昼寝でも多くして何とか体力維持につとめなければ暑気に負けてしまいます。
  歩行力だけでなく視力も日々おとろえて、細かい字を読むのがオックウ至極です。読書の楽しみが減って来るのは、ことに独居生活には残念なことです。

 幸い若い頃から少しずつ漢詩をかじって居たので、字の大きい漢詩を読むのだけは少々楽です。今頃になって漢詩になぐさめられようとは、思ってもいませんでした。なんでもやっておけば、いつか役立って呉れるものですね。
 先日漢詩を拾い読みしていたら、次のような詩に出会いました。悠々自適の生活を楽しむようになって、貴兄には興味が持てそうなので次に記してみます。

     銷夏詩      清・袁枚(エンバイ)

  不着衣冠近半年      衣冠をつけざること半年に近く
  水雲深処抱花眠      水雲深き所花を抱いて眠る
  平生自想無冠(官)楽   平生自ら思う無冠(官)の楽しみ
  第一驕人六月天      第一人におごる六月の天

(意訳)
  堅苦しい正装の役人生活をやめてから半年近くがたち
  今は清らかな水や雲の深い所できれいな花々に囲まれて眠る生活である。
  毎日官職のない気楽さを満喫しているが
  ことに人にいばってやりたいのは、この炎天下の六月の
  わが生活のすがすがしさである。

 たまには漢詩も楽しいものです。貴兄の近況にぴったりかと思って一首拾い出してみました。
 いつもの変わりばえの無い葉書に代えて一筆書きました。銷夏どころか一層暑くなりそうで恐縮
                         盛夫生
   原田雅兄
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上の書簡の2年前に原田さんに宛てた加藤さんの絵葉書です。

自立した老いとは 恩師の書簡より       その13       

 平成19年(‘07年)2月5日  加藤さん 96歳

 暖冬どころか「厳冬」とでも呼びたい程寒さ知らずの冬が、このまま終わりそうです。
 老人にはありがたいことですが、幼い頃から慣れ親しんだ冬には、やはり寒い冬のほうがなんとなく落ちつく思いです。
 
 ところで体調はいかがですか。気力充実の貴兄のこと、すっかりお元気のことと拝察しております。暖かい春ともなれば、山登りがしたくなることでしよう。

                                  小生も  相変わらずの日々を送っています。歩行困難は変わりませんが、歩く努力をしなければ、いよいよ歩けなくなるばかりなので、つとめて歩く努力を続けたいと思っています。一日一時間を願っていますが、どこまで続くことでしょうか。
 
 老化の進行は歩行だけでなく、体力、能力、知力すべてに及びます。
 この頃は視力の低下から来る不便に悩まされております。左右の視力差が大きくなり、絵も字もひどく書きづらくなりましたし、距離感がとれないため、あぶなくてなりません。
 あれこれとグチを並べても仕方のないこと、これが老人の宿命とあきらめています。昨日はあきらめて知事選の投票に行って来ましたが、やはり疲れました。

 文通をする知人、友人もすっかり少なくなり、さみしい思いをしています。

 庭に植えた「ヒメ・サザンカ」の木が、やっと白い小さな花をいっぱい咲かせてくれました。暖冬のせいか「ヒガンバナ」の葉が、わがもの顔に茂っています。
 「ツバキ」の花もすぐ開きそうですし、朴(ほお)の木の芽も大きくなりました。

 春のめぐり来るのは、何才になっても嬉しいものです。元気を出して頑張らなくてはと思っています。
  
     節分の日に                      盛夫生

    原田 将司  雅兄

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95歳の加藤さんが原田さんに送られたメモ書きです。


自立した老いとは 恩師の書簡より       その14 了

 「自立した老いとは」という課題を学ぶために、私の恩師の書簡を紹介してきました。ここに紹介したものは、加藤さんと、原田さん、当方にとっての両先生の書簡のやり取り、そのうちの加藤先生のものの一部を掲載してきました。
 加藤さんの書簡と絵はいずれも90歳を超えられてのものです。お読みいただいたように、しっかりとした考え方をお持ちになり、自立した老後を最後まで実践されました。
 加藤さんは平成21年、2009年の8月14日に亡くなられました。99歳白寿でした。その直前までも淡々と変わらず、衣食のすべてを自分でされる独り暮らしを守っておられました。その状況を原田さんがメールしてくださったので、ここにまた紹介します。

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 盛夫先生の最晩年の生きる姿は「これは仙人ではないか・・・?」の印象でした。
 亡くなられる1ヶ月前ほどだったでしょうか、盛夫先生の自宅に上野小時代の
森先生と2人で訪問しました。

 歩くのがやっといった姿で玄関にて出迎えてもらえました。その時はまさに仙人の姿でした。でも、ゆっくりとした話をし、言葉は全く正常そのものでわれわれに強く訴えるものがありました。
 人生、最晩年を出来るだけ、他人の手を借りず、独りで生き行く構えを淡々と語ってくれました。こちらはただただ頷くのみでした。

 話の途中で、今、洗濯物をしている途中なので、今から干してくるからしばらく待っていてくれと言われました。干し終った後、1時間余、上野小時代のこと、この歳(100才)で一人で生きて行くことの大変さを、仙人のごとくゆっくり語られました。神気迫るものがありました。

 午後3時近くなったとき、「今から入浴サービス車が来てくれるので今日はこの辺で・・・・」と別れを惜しむように我々2人に淋しそうに話しました。
  我々は別れを惜しまれる盛夫先生を後にして、入浴車が来ると同時に先生宅を辞しました。

 それから2週間ぐらいした後でしょうか、体の不調を訴え入院されたとのことでした。
 そして、また、その2週間後にお亡くなりになりました。まさに天寿を全うした盛夫先生でした。

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          加藤盛夫先生 91歳のお姿です。

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 14回に分けてブログ掲載した、私の恩師の書簡紹介をひとまずここで終了します。
 お二人の書簡は、まだまだ多く残っています。今後も時間をかけてそれらを拝見し、「自立した老い」、言い換えれば「自分なりにどう精いっぱい生きるのか」について、また学ばせていただきたい思っています。      

                               了