自立した老いとは 老いの心得 その2

老いの心得 その2

素直に老いを受け入れよう

 人がまず老いを感ずるのは体力の衰えである。それが一番端的に感じられるのは足腰の衰え、続いて平衡感覚の不安定さだ。片足立ちがひどく不安になり、立ったままでズボンを履いたり脱いだりするとよろけがちになる。

 加えて注意力の集中時間が短くなる。読書でも作業でも1時間や2時間くらいは時間など気にせず熱中できたものが、30分も同じことを続けるともう駄目になる。絵など描いても一気に引くことができる線の長さが段々短くなる。 

 さらに進むと、五感が自分ながらいやになるほど不自由になる。目が見えにくい。白内障が進行する。耳が遠くなる。後から来る自動車の音などが聞き取りにくくなって、はっとすることがしばしば。テレビやラジオの音量が、知らず知らずに増えている。
 数え上げるときりが無いが、要するに幼児から次第に訓練され身についてきた力や感覚が、次々と衰え弱くなって来る。
 
 まったく昔の人が言ったように、老化とは赤子帰りである。幼児の場合には次々と力を獲得して行くときの過程で希望いっぱいであるが、老化の場合には先に希望のない時々刻々の流れがあり、悪いことに体力も感覚も完全であった若い時の記憶があるだけに、余計心細くなりイライラすることになる。

 そのために足腰が痛むとリハビリに頼り、視力の衰えには眼鏡だ、白内障手術だと。また補聴器をつけたら聴力が取り返せないかと、いろいろな器具を求めたり、あの医者この医者と医師に頼って、何とか昔の若さを取り戻そうと走り回ることになる。

 しか考えてみると体力にしても感覚にしても、そのひとつだけが弱ったり故障したりしたのではなく、どれも一斉に衰えて来るのである。それこそが老化の進行なのだ。老化の進行は生命が徐々に限界に近づくことであって、生きている者にとって避けることのできない宿命である。

 母の胎内を出てこの世の空気を吸って以来、一刻の休みもなく生命はこの終局に向かって進んでいるのであって、例外は一切ない。

 それが何とかならないかと右往左往するのが人間である。なまじ智慧に恵まれているだけに他の生物のように素直になれない。

 秦の始皇帝の例に見るように、あらゆる富や権力を手にした人間が最期になんとしても手に入れようとあがくのが不老長寿の願いであろう。しかし思い通りに不老不死を手に入れた者は誰もない。

 それだったら少々発想を転換して、老化を避け不老不死を望むよりは老化を絶対避けられないものと素直に受容し、受け入れるためにどう考え、どう生きたら良いのかを考えたらどうだろうか。

 知り合いの老人に自分の老化の話をすると決まったように帰ってくる答えは、「どこそこの医者にリハビリを受けると腰の痛みが軽くなりますよ」とか、「白内障の手術は簡単だからぜひおやりなさい」とか、「良い補聴器の世話をしてあげよう」とかいうことである。
 さすがに記憶力が減退したことや精神集中の時間が短くなったことには何の言葉も返って来ない。これらは名医や良薬も無さそうである。

 私が今思っているのは体力や気力など五感の衰えは、私の命がたどる大きな流れの中の一つであって、それらの全部が調和しながら命の終焉に向かって進んで行く自然の流れであって、それを素直に受け入れることが安楽往生への最良の方法であると思う。

 生涯宗教心には縁遠く、人生の悟りも得られず極楽往生の安心もない自分などは,せめてこれ位のところが行きつくところのようである。

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