新聞経営が見落としたもの その1

新聞事業の衰退の要因を探る

 国内の新聞事業は、2000年を越えてから衰退期に入っている。その衰退の要因は時代の環境変化への適応ミスであり、それを生んだのが新聞事業の余りに強すぎたビジネスモデルだった。

 これまで新聞の凋落は多く語られてきたが、その事業構造から振り返ったものがあまり見当たらない。新聞業界での40年余りの経験をもとに、一つの見方を提示してみる。

  日本新聞協会の調査では一般紙とスポーツ紙を合わせた発行部数は、2000年から昨年17年までに1158万部余り、21.5パーセント減って約4213万部。売り上げは04年から16年までの間に6122億円、25.7%減の約1兆7675億円にまで減った。そして減少率は年とともに高まっている(注1)。

   新聞事業は前世紀末にピークアウトしており、現在では新聞発行だけで収益を上げるのは難しく今生き残り策を模索している。

   新聞事業はなぜ衰退してきたのか。どこにその原因があるのか。

最強のビジネスモデル

  新聞はかつて国の産業分類で製造業に位置付けられていた。
この事業モデルの特徴は、生産から配送、販売まですべてを運営する一気通貫の業態だったことにある。

   現在存続する新聞社で最も古いといわれる毎日新聞の創刊は明治5年、1872年という。今年2018年で146年になる。朝日、読売もその前身が相次いで明治時代に創刊しており、新聞という業態は100年、一世紀を経ても有力な存在でいる。企業30年説などから見れば、極めて優れたビジネスモデルゆえに存続できたといえる。

 その業態の強さは先ほどの一気通貫事業、生産から流通までを支配することによって生まれた。そして商品のコアが、ニュースという日々変化する情報だった。ニュースは報道されれば一日で値打ちが落ちる。それゆえにそれを報ずる新聞は「生鮮食品」ともいわれる。そしてニュース・情報は近代以降、暮らし、社会生活に欠かせない「食物」になった。

 その扱い方と料理法、つまり情報の取材と編集、配信は技術進歩によって変わった。しかしニュースへの需要は高まりこそすれ、減少、消滅することは考えられない。ではその時代の「食物」を扱い強力なビジネスモデルだった新聞業界が、なぜ衰退しつつあるのか。

 OBとしての反省をしたうえ結論を先に言ってしまえば、その衰退の要因はひとえに新聞社内部の人間たちが自己のビジネスモデルをしっかり把握しなかったこと。そして時代に合わせてその事業モデルの改造、改革を怠ったことにある。

 少し具体的に言えば、新聞というビジネスモデルは大きな収益性と可能性を持ったものだった。ただ業界内部の人間たちがその可能性に気づかず、時代に応じた変革と再生の機会を見送ったことに衰退の最大の要因があると思う。

 後で詳しく説明するが、それは大企業になってしまったゆえに目前の変革に対応できない、一種のイノベーションのジレンマが起きていたといってもいい。下世話な物言いをすれば、新聞社はブランドもあり儲かりすぎたために、ハングリーさ、危機感を失っていたのだといえる。

事業領域の見落としと3つの失敗

 時代とその市場環境への適応ミス、機会喪失にはいろいろある。ここではその失敗の根幹を事業領域=事業ドメインの見落としにあるとし、その要因を3点指摘し、説明をしてみたい。

 3つとは以下の項目の失敗になる

1.新聞モデルの強みである宅配網、ラストワンマイルの軽視

2.求人広告の可能性を見通せなかった

3.紙による情報のポータルサイトという見方ができなかった

事業領域=ドメインの見落とし

 まず前段として、各項目に共通するのはその失敗の背景に自己の事業領域=ドメインをその時々に把握できなかったことがある。

 この「事業ドメイン」の説明には、19世紀後半から一世風靡した米国の大陸間鉄道会社がよく例示される。
 鉄道会社が自社の事業を鉄道と限定せず、輸送事業と把握していたら、その圧倒的な資金力とブランドで自動車や航空機事業をも支配していたはずだ。
 こう説いた元ハーバード・ビジネス・スクール教授、セオドア・レビットは、ハリウッドの映画事業会社も、自らの仕事をエンターテインメント事業としていれば、その後隆盛を迎えるラジオ、テレビ、テーマパークなどに転進できたはずだと指摘した。

 双方とも自社の事業領域、事業ドメインを狭くとらえてしまっていたのだ。彼はこれをマーケティング近視眼とも比喩した。

 事業ドメインの要素は、「誰に」「どんな価値(商品)を」「どのように提供するか」だ。新聞事業に当てはめれば、「市民に」、「ニュース(情報)」をという前二者には変化はないが、その最後の「どのように提供するか」が時代とともに大きく変わりつつあるのだ。

 新聞社がこれまで提供してきた媒体は新聞紙という紙だった。それゆえに印刷、輸送、配達というハードな生産、物流体制が必要だった。そしてそれには大きな設備投資を必要とした。

 輪転機は1セット数十億円もする。それを全国紙ともなれば各地に印刷工場を置くので数十、数百セットにもなる。また80年代以降急速に進んだ、印刷活字の組み版、原稿の集配信、そして編集システムも数十億から百億単位の投資を必要とした。
 しかしいったんそのシステムが完成すれば、商品の生産から配達まで一気通貫で支配するという極めて強力なビジネスモデルとなる。莫大なコストと時間をかけて完成させた装置産業は、外部からの参入障壁も高く、それゆえに一世紀を超える繁栄を謳歌することができたのだ。
 

 しかしそのモデルの強固さが、逆に内部の油断、ゆるみを生み、自らの事業業態、ドメインの検証を怠らせた。

以下3つの失敗を検討するが、それぞれのミスを生む土壌としてドメインの見落としがある。

失敗1.宅配網 ラストワンマイルの見落とし

 新聞の宅配を考える時、忘れられない話がある。ある販売局幹部が酒席で語ったものだ。
「宅急便のヤマトが創業間もないころ、配達を手伝ってくれないか、といってきた。しかし新聞は配達に遅れないよう毎日1分を争う商売をしている、他のことはやってられんと断った」
 話を聞いたのはもう20年余り前のことだ。話の真偽を確かめはしていない。しかしその可能性はあり得る話だったと、今になっても覚えている。

 新聞社の全国紙は、最盛期自社の新聞だけを扱う専売店と地元紙などもともに配達する合売店を含め、5000店以上の販売店網を持っていた。しかも毎日、配送をこなしている。これから宅配を目指す運送業が、その集配窓口などの提携先として新聞社を狙うのは当然でもあったろう。

 物流の分野では、商品・サービスが顧客に達する最後の区間、物流の最終拠点から顧客に届けられる最後の区間をラストワンマイルという。そしてこの最終区間を制する者が、生産から顧客までの流通ネットの覇権を握るともいえる。

 届け先が膨大かつ広域で、しかも配達時間の一定化が難しい。それゆえに簡単にシステム化や集配ネットワークを組めないのがこのラストワンマイルの最大の課題だ。

 そして半世紀も前から、このラストワンマイルをかなりのレベルで実現していたのが新聞業界なのだ。しかしその配達網の潜在的な可能性に気づかず、新聞各社は大きなビジネスチャンスを見送った。
 

 今、国内の売り上げが1兆3千億円を超えたアマゾンなど、物販系のネット販売が急成長を続けている。この販売物流の最終区間を支えているのが宅配サービスだ。取り扱い数は年間40億個(平成28年度)を超え、人手不足と過重労働が今業界の最大の課題になっている。

 そのような急速に拡大する市場のトップを占めるのがヤマト運輸だ。

  同社の2代目社長の小倉昌男氏が宅急便を企画、開業したのが1976年だった。
関東で始めた宅配事業の手ごたえを感じ、全国展開をもくろんだヤマト運輸にとって、最初の課題は、顧客からの荷物を受け付ける窓口であり、自社の配達網を補う戸別配達業者だったはずだ。

 いまその窓口として大きな存在になっているのが、コンビニエンスストアだが、セブンイレブンがその1号店をオープンしたのが2年前の1974年。10年後でもコンビニの店舗数は6千店をやっと超えるペースであり、70年代にはまだどのコンビニ業者も宅急便の全国展開に対応する店舗を持っておらず、ましてや戸別配達のルートはなかった。

 冒頭の話のように、創業当時、ヤマトが提携対象として検討し相手に新聞販売店が含まれていた可能性は高い。新聞販売店の70年代の店舗数が確認できないが、記録のある2001年で2万1千店を超えており、まだ新聞が部数増を続けていた70年代には25000店近くあったのではないか。

 新聞社は、この当時から毎日定時の新聞配送のネットワークを持っていた。都市部では朝夕刊の2便。朝刊は午前零時前後の極めて走行しやすい時間帯に、東京や大阪、福岡、名古屋など本・支社と印刷工場のある大都市圏から地方の市町村まで毎日多数のトラック便を走らせていたのだ。

 このトラック便だが、どの新聞各社もつい最近まで自社の新聞しか運ばない単独輸送が大半だった。それゆえ積載率などほとんど考えていなかったのが実情だった。部数の少ない新聞社は、ガラガラの荷台でもそのまま毎日走行させていた、そしてさらに帰りはカラの荷台での戻り。これを連日、全国レベルで続けていたのだ。
 たとえ配達時満載でも、帰りがカラの荷台であれば平均積載率は半分以下。しかもこんな非常識な非効率を続けていたのがつい最近までの新聞業界なのだ。

  信頼のラストワンマイル

 さらにこの新聞のラストワンマイルは、「信頼配達」ともいえる大変値打ちのある最終区間でモあった。

 70年代初め、当方が新人記者として或る地方の支局に赴任した時、歓迎会を開いてくれたのは地元の販売店主さんだった。店主さんはその地域の議会の議長まで経験した有力者「だんさん」だった。

 昭和の敗戦から急速に部数を増やした全国紙、地方紙は、地域販売店主に地元の有力者、企業家を選んだ。いわば名望家の経営ゆえに、〇〇新聞社販売店、というより、誰々さんの販売店、新聞店と呼ばれるところが多かった。つまり信頼性、地域のブランドがその販売サービスを裏打ちしていたのだ。

 信頼のラストワマイル。これは今のコンビニ、宅配業者でもなかなか築きえない貴重なサービスである。

 もしこのルートで、モノを売る、あるいはサービスを提供すれば、その信頼、ブランドがその商品にも付加されるはずだ。

 地方の新聞店は、大方が交通の便のいい街の中心に近い場所に置かれていた。主要道を毎日走ってくるトラック便からの荷受けに都合がよく、かつ新聞を個別配達しやすい所を選んだためだ。

 しかもその店を使うのは、夕刊のある都市部では早朝と夕方だが、地方では日中折込チラシの準備に使われるぐらいで、利用されない時間帯が多いのだ。

 話は少しそれるが、衰退の一途をたどる地方の商店街で、唯一といってもいいほど無難な経営を続けられたのが販売店でもあった。当方が支局長をしていた近畿の地方都市では、かなりの店主さんが寂れた「シャッター街」をベンツなど高級車で走っていた。

 新聞販売店は、新聞紙が毎日定時で届けられるために、商店にとって最大の課題でもある仕入れと在庫管理が要らない。必要なものは従業員の労務管理と顧客管理で、しかも集金は大半が現金、日銭が入る。一定の販売部数さえ維持できれば、極めて楽な店舗経営になるのだ。

 今老齢化の進む社会で、買い出しがしづらい人々への個別配送やサービス提供がより求められている。

 もし新聞販売店が、店舗を活用し信頼の配達網を利用するラストワンマイルビジネを考えたら、新たな地域のサービス拠点というブルーオーシャンのパイオニアに生まれ変わっていたかもしれない。

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※注1
 
なぜ部数と売上で調査期間が違うのか。協会でも加入新聞各社の経営数値をなかなか把握できない状況がうかがえる。
 業界で唯一ともいえる共同組織、一般社団法人日本新聞協会は、もともと業界の「倫理の向上」を目指したものであり、新聞事業の経営分析、調査は編集分野に比べ大きく遅れている。これは新聞業界の営業部門軽視の風潮の象徴でもある。有価証券報告をしている参加社が少なく、協会でさえ経営、営業実態を把握できないのが現状なのだろう。
 新聞の販売事業における状況は最近出版物もあるが、他の広告、企画事業などを合わせた新聞社総体の事業実態を押さえた資料は極めて少ない。新聞社は情報の公開を叫ぶが、自らの経営・営業実態については一部を除き、極めて閉鎖性が高い。

※注2
 地域のサービス拠点として先進的な成功を収めていた販売店を視察したことがある。紹介してくれたのは当時クレディセゾンの幹部で、百貨店なども経験した販売物流のプロだった。
 20年近い前のことで、アバウトは説明になるが、その全国紙販売店は複数店舗を経営し3000部以上を仕切っておられた。特徴は店主さん自らが作った顧客管理システムだった。
 さらにパートの女性5人ほどを使い、読者に定期的に電話をし、新聞配達の遅れはないかから始まっていろいろな相談まで受け付けていた。読者は数か月間隔の定期コールを受ける。やり取りは記録され、読者情報が蓄積される。こどもの誕生祝いまで声掛けできる。読者と店との信頼のパイプが築かれていた。

 驚いたのは地域で家電量販店などがセールを行う場合、このお店コールを通じて呼びかけると顧客動員力が2,30パーセントも高まっているということだった。

 新聞販売店の信頼配送網は、商品やサービス販売で高い収益性を約束すると教えていただいた。「本社にあおられての部数拡張をこれ以上続けたくない。拡張コストを考えると収益効率が悪い。お客との信頼パイプを利用して新しいサービスを築いていきたい」。こう語った店主さんの言葉が、新聞販売店の将来の可能性を示唆していた。

この項続く

 

 

 

 

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